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融けるロボット

ロボットという存在について考えると、2000年以降の20年でその分野は大きく広がり、かなり身近な存在になったように思います。Sony「AIBO」、NEC「パペロ」、SoftBank Robotics「Pepper」などは一度は見たことがあるでしょう。パンデミック以降は、いわゆる非接触ソリューションとして、接客ロボットや配膳ロボットが導入されている店舗も増えていますよね。

ロボットの社会実装が進む一方、「ロボットってどんなもの?」という問いへの答えは、年々難しくなっているように感じます。ひと昔前であれば、産業用ロボットアームや、ヒューマノイドロボットをイメージする人が多かったでしょう。しかし昨今ではロボットの多様化が進んでおり、「これもロボット…なの…だろうか?」といったものが増えているように感じます。

NEDOは、ロボットの定義を「センサー、知能・制御系、駆動系の3つの要素技術を有する、知能化した機械システム」としています。この定義にのっとれば、例えば自動運転車もロボットになりますが、一方で駆動系を持たないという点では、スマートスピーカーやチャットボットは厳密にはロボットではないということになります。(スマートスピーカーやチャットボットは、厳密には「エージェント」ではあるけど、「ロボット」ではありません。しかし、多くの人はロボット的なものとして認識しているのではないでしょうか。)

ロボットのあり方、ロボットのイメージが多様化していく中、ロボットという存在は今後、どのように変化していくのでしょうか?


生物に近づく

ロボットを人間社会の中に違和感なく存在するようになるためには、生活環境の中での「異物感」を解消していく必要があります。剥き出しの機械システムではなく、意図的にそのメカニズムを隠蔽して生活環境に溶け込みやすいデザインが必要となっていくでしょう。

コミュニケーションロボットや、テレプレゼンスロボットというように、その役割に社会性が求められるロボットの場合、異物感の解消方法の一つとして、「生き物らしくする」ことが考えられます。たとえば見た目の異質さを感じさせず、できるだけ生き物のように振る舞えること、何か知能があるような振る舞いを行い、これによってノンバーバルなコミュニケーションを実現可能にするといったことです。人を無生物に対してコミュニケーションをとらせようとするのは難しいですが、生きていると錯覚させることで、インタラクションの敷居を下げることができるでしょう。

LOVOTは言葉をしゃべりませんが、動きや視線、鳴き声といったノンバーバルな動作によって、動物のような人懐っこさをデザインしています。

SEERは表情による感情表現に特化したロボットです。こうしたロボットはアニマトロニクスとも呼ばれたりもします。

そもそもアニメーションという言葉は、ラテン語のアニマ(魂)が動詞化した言葉で、「命を与えて動かす」という意味合いがあります。生き物感を演出するという点では、アニメはロボットに先んじてきた領域と言えます。近年はこうしたアニメーションのノウハウをロボットに取り込もうという活動も活発です。例えばAnki社のCozmoというトイロボットは、元Pixarのアニメーターがデザイナーとして開発に参加したことで話題になりました。


透明化(偏在化)する

生物を模倣することで生活環境に溶け込ませるアプローチ以外に、ロボットの存在感のデザインの仕方のラディカルなアプローチとしては、そもそものロボットの存在自体を消してしまうという方向性も考えられるでしょう。

NEDOのロボットの定義で示されている要素のうち、センサーと知能・制御系はソフトウェアなので、そもそも目に見えることはありませんでした。残る、ロボットをロボットたらしめる「駆動系」の部分が、やがて我々の環境のあらゆる場所に埋め込まれるようになっていくと、ロボットという存在は一つのオブジェクトではなく、水や空気のように偏在するものになっていくかもしれません。

たとえば、スマートスピーカーというインターフェイスを介して家のあらゆるものが制御可能になるというスマートホームという考え方は、いわば家自体がロボットと一体化したものと言えるかもしれません。(Switchbotのようなデバイスは、まさに「駆動系」の偏在化を象徴するものといえるでしょう)

2022年のCESでHYUNDAIが発表したフューチャービジョンでは、車だけではなく世の中のあらゆるものがモビリティ化する未来が描かれていました。植物が自動で動いて日当たりのいいところに移動する、というシーンはロボットが偏在化するイメージとして非常にわかりやすいです。

日本のPreferred Roboticsが発表したロボットKachakaは、ロボティクス技術を使って家具を自律的に動かす「スマートファーニチャー」というコンセプトです。センサや知能と連携して身の回りのものが自律的に動くようになっていくと、ロボットと環境の境界線はどんどん曖昧になっていくでしょう。

そして、環境のあらゆるものが制御可能になった時にこそ、2012年にMIT Media Labの石井裕教授が率いるTangible Media Groupが提唱した「Radical Atoms」のビジョンが実現する時と言えるでしょう。

Radical Atomsとは、コンピュータの画面上に表示される情報(ビット)は、プログラムによって自由に操作可能である一方、実空間にある物質には原子(アトム)によって規定されているため、ピクセルのように操作することができない。しかし、コンピュータにおけるビットのように、形状や性質をダイナミックに変化させられる夢のようなマテリアル=ラディカルアトムが実現できれば、世界のあらゆるものがコンピューテーションによって制御可能になる…という壮大なビジョンです。

Tangible Media Groupの研究成果の一つであるinFORMは、高さが自在制御可能な物理的な箱の集まりです。ビデオではこのシステムの様々な応用例が提案されており、Radical Atomsのビジョンの可能性を印象付けました。

Tangible Media Lab出身の研究者、中垣拳助教授の研究室が今年発表したAeroRigUIでは、天井を移動するロボットとワイヤーを巧みに制御することにより、3D空間のオブジェクトのように実空間上に様々なオブジェクトを設置可能なシステムを提案しています。


ロボットはロボットで居続けられるか?

私は、ロボットが社会実装されていく過程の中で、今我々がイメージするようなロボットはその存在感を消していくのではないかと考えています。

昔はロボットというと、わかりやすいイメージがありました。「機動戦士ガンダム」で描かれた身体を拡張する服=モビルスーツや、「機動警察パトレイバー」で描かれた、人型で高度な操作性を持つ重機=レイバーのような。いずれも人間が制御する道具や機械の延長線としてのイメージです。しかしロボット自体が自律性を持ち、より自然に社会の中にはいっていくためには、こうしたロマンや固定概念を一度忘れる必要があるのかもしれません。

たとえば、「車を運転しなくていい未来」を想像した時、多くの人は車にロボットの運転手が乗って運転してくれるというイメージを持っていたのではないしょうか。しかし、実際には今まさに社会実装が進もうとしている自動運転車には「ロボット運転手」は車に溶け、一体化しています。

19世紀に発表された児童向け小説の中で、蒸気機関で動く鉄の馬が馬車をひく姿が描かれたという逸話があります。

from Project Gutenberg's Frank Reade and His Steam Horse, by Harry Enton

当時最新のテクノロジーである蒸気機関と、人々の移動手段である馬車が一体化した、未来のモビリティの姿として、自動車ではなく鉄の馬が描かれたというのが、今見ると笑えますね。

でも、今我々がロボットというものに対して持っている固定観念は、未来の人々からすると、我々が19世紀に描かれた蒸気機関の馬に対して感じるような奇妙なものに映るのかもしれません。

この記事は、Dentsu Lab TokyoとBASSDRUMの共同プロジェクト「THE TECHNOLOGY REPORT」の活動の一環として書かれました。今回の特集は『検索』。編集チームがテーマに沿って書いたその他の記事は、こちらのマガジンから読むことができます。この記事の執筆者は、Dentsu Lab Tokyoの土屋泰洋です。


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