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ほぼない

この質問にはこう答えざるを得ない。

中高は男子校で万に一つも有り得ないような妄想に研鑽していると時は流れ、浪人時代に通った予備校では高校時代の親友であり悪友とも言えるT君と共に、食事室で合コン紛いの談話をしている所謂一軍男女グループを横目に、ラーメンを食べる時に髪を耳にかける女性とかけない女性、どちらが魅力的であるか、といったような生産性のかけらもない議論を飽きることもなく交わしていた。

かくして、かつて夢想した青春時代は、蓋を開けるとドス黒くて見るに堪えない暗黒時代だったのであるが、あれは私が大学院生として日々研究に明け暮れていた頃であろうか、色恋の類とはかけ離れすぎて近づこうにも近づいた気がしない、言わば色恋蜃気楼に迷い込んでしまった様な私の人生に、あろう事か一片の光がさしたのである。

それは紛れもなく茨木さんであった。
茨木さんは私と同じ研究室に所属していて、その仕事ぶりからあらゆる人間から一目置かれていた。
彼女は繊細微妙で夢のような、美しいものだけで頭がいっぱいな黒髪の乙女であり、その上頭脳明晰で家族思いな一面もあるというような非の打ち所がまるで見つからない、見つけたとしたらそれは君が頭を打ったに違いない、そういう人間であったのだ。

当然私のような堕落して朽ち果てた、犬も食わないような人間が彼女と同じ空気を吸っているだけでも面目の無いことであるのだが、彼女はそんな私にも優しく接してくれた。毎朝「おはよう」と声をかけてくれた。
それが私にとって至上の幸福だった。
私は彼女に恋をしていた。これは紛れもない事実である。

彼女は夜空が大好きで、星の話をしている時だけ方言が出て愛らしい。彼女は研究室長と話す時、その緊張からか肩が少し上がる。彼女は何故か歯を磨く時だけ左利きである。彼女は毎週水曜日に爪を切る。彼女がミステリ小説を読む時、終盤になると背後を気にして定期的に振り返るようになる。彼女は、彼女はT君のことが大好きだ。

彼女はその長い髪を耳にかけてラーメンを食べた。

彼女は頭を強く打って死んだ。

振り向いて欲しかった。

振り向いて欲しかった。

ミステリ小説を読んでいる隙を狙った意味はなかった。

あれだけ愛し合っていたのに、星になった茨木さんに対する興味は皆無であった。今ならこう言えよう

39年間で恋したことは ほぼない

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