見出し画像

ホン雑記 Vol.158「世界と自分の境界線」

そんなに日替わりランチのようにコロコロするなら、もうそれメンターじゃないんじゃないの? と、自分でも思うわけだけど、最近は養老孟司氏にハマってきてる。


この歳になってなぜか虫をリスペクトしだすようになってきて、そこから彼に辿り着いた。多少のシニカルさを補って余りある聡明さがクセになる。
バランス感覚というんだろうか。人生相談の返しの厳しさと安心感のブレンド率がちょうどいい感じなのだ。
学問の象牙の塔に入り込んでしまった関係者とは違って、彼はいつまで経っても永遠の学ぶ者でいられるのだろう。
ニュートリノの検出に成功した、ノーベル物理学賞を受けた小柴昌俊氏にもそんな聡明さを感じたなぁ。質問者と同じレベルで答えを返すんだよね。


養老氏が幽体離脱は存在すると言っていたのが面白かった。

本人もいつも前置きをするが、出てくる言葉の意味をすべてきちんと説明できるわけではない。
たとえば養老氏が「意識って何?」という質問を投げかけられると、彼は面倒くさそうに教えてくれる。
実際は面倒くさいというよりは「この説明では十分ではないんだけどなぁ」と引っ掛かる要素が多すぎて表層的な答えを返していることに「なんだかなぁ」と感じている気がする。(たとえば手を動かそうとした時、実際には自分の意識が「よし動くぞ!」と思った瞬間の0.5秒前に、手を動かす神経はもう反応しているという。ではこの「動こう!」と思った(と思い込んでいる)意識とはいったいなんなのか? 意識の話をするだけでも、これだけの予備知識が相手に必要になってしまう)

そんなことを踏まえてフワッと話すが、自意識や自我は、自分が思っているほど自分ではなく、たいしたものではないらしい。

たとえばカーナビでどれだけ精度の高い地図全体だったり、出発地と到着地の正確な位置が分かっていても、これだけではなんの役にも立たないという。
それらに加えてもうひとつ、自分の現在位置を知らせる座標が分からなければいけない。
自意識というのは、その座標だというのだ。脳の中にはその座標を司るだけの一部分が実際にあるらしい。

そして、病気などによって、その一部分だけが機能しなくなってしまった人が存在する。
この人物に話を聞くと、自分の境界線が分からなくなるという。自分の肉体が自分であるという概念が壊れ(常人には皮膚の内側=自分という確固たる事実にしか思えないが、まさかこれが概念だとは!)、まるで自分が水になったような感覚になるという。
その人は自分が寝ているところを上から見ているような感覚になると言い、どんどん自分の範囲が広がっていってしまう。最終的には、世界=自分となる。
これがたまに起こる人がいて、養老氏は「1割ぐらいいるんじゃないか」と言っていた。幽体離脱体験者、ウソは言ってなかったらしい。

オレも人生で1度だけ、1日中デジャブ感覚に囚われた感覚があった。いまやっている行動を、数分前にもやっていたようなハッキリした感覚が、回数にして数十回は起こっただろうか。たまに来るぶんにはデジャブも楽しいが、もしあれが1週間も続いたら気が触れていただろう。1日だけでも本当に精神が疲弊した記憶がある。

なんとも頼りない器官を、自分と思っているもんだ。



世界=自分(自分さえ良ければいい、の真反対)になるのが死ぬまでの夢だけど、ちょっとつらすぎるかもしれない。

でも、オレの最メンターのドリアン助川氏も、人生のどん底で一時的に世界=自分になったことがあるので、同じ景色を見てみたいとは思う。


でも、どん底イヤだなぁ。




サポート大歓迎です! そりゃそうか!😆 頂いた暁には、自分の音楽か『しもぶくりん』への「やる気スポンサー」としてなるべく(なるべく?)覚えておきます✋ 具体的には嫁のさらなるぜい肉に変わります。