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「脳波は下処理しない方がいい」という衝撃の論文が出ていた件

EEG is better left alone (脳波はそのままが良い)というタイトルの論文が2023年にScientific Reportsに出ていた。つまり、「脳波の下処理はしない方がいいよ」という衝撃的なメッセージだ。

しかも著者は脳波処理の王道EEGLABを開発したDelorme氏であり、つまり脳波のスペシャリストだ。その彼が「脳波の下処理なんてしない方がいい」という論文を出したという点に、とてつもないインパクトがある。

この記事ではその内容を整理し、関連する議論を整理していきたい。

結論

結構長くなるので結論を先にまとめておく。

  • 「ハイパスフィルタやチャンネルの補完を除き、下処理に関するほとんどの処理(自動ノイズ区間除去、ICAによるノイズ除去、ラインノイズ除去、再基準化)をしても脳波解析の精度は上がらなかった」と主張している

  • ただし、使用されている「脳波解析の精度」の指標が不適切であるという複数の批判がある

以下、論文の内容、批判、私見の順に書いていく。

論文の内容

まずChatGPT(Paper Interpreter)に内容を解説してもらった結果がこちら。

ChatGPTによる解説

ただ、これだけ読んでもイマイチよく分からない。本文の重要な点を解説していく。

実験・解析の手法

この論文では、3種類の認知課題中の脳波データセットを使用している。例えばGo/No-Go課題など。
それらのデータを用いて、「脳波が適切に処理され無関係なノイズが減るほど、条件間ではっきりと差が見られる」という前提で以下のような解析をおこなっている。

具体的には、各条件(この場合Go条件とNo-Go条件)の脳波を比較し、「条件間で有意な差が見られた電極の割合」を脳波の精度を反映する指標として用いている。

そして以下は読み飛ばして構わないが、もう少し詳細を書く。
有意な差について詳しく掘り下げると(この辺りの記載が分かりづらく、誤解があるかもしれないが)、刺激に対する脳波の反応(電位そのもの)をシングルトライアルでみているようだ。まず、それぞれの条件で50トライアル分の脳波をランダムに抽出する。そして、ターゲットとなる時間帯(例えばGo/No-Go課題なら刺激後350–450ms)における電位を条件間でt検定により統計比較する。この処理を電極ごとに行う。すると、条件間で有意な差がみられた電極の数がわかる。この数が多ければ多いほど、条件間ではっきりとした差が脳波に現れていたということになり、それは脳波が適切に処理されたことを反映している、と考える。ちなみに上記のような処理を20000回繰り返すブートストラップのような処理をしているようだが、ここはあまり正確に読み取れなかった。

この、「条件間で脳波に差が見られるか」という指標を使って、ハイパスフィルタ、ノイズ除去、再基準化などの性能を検討している。

解析結果

ざっくりまとめると、解析結果は以下のようになる。

ハイパスフィルタ
0.01 | 0.1 | 0.25 | 0.5 | 0.75 | 1Hzでハイパスフィルタを適用し、性能を比較した。結論、ハイパスフィルタは使用した方が「条件間で有意差が見られた電極数」は増加し、ハイパスフィルタを使用した方が良いことが示唆された。どれも大差ないが、おおむね0.5Hzのハイパスフィルタがもっとも良さそうという結果となっていた。また、使用するツールボックス(EEGLABやFieldtripなど)によっても若干結果が異なった。

ラインノイズ
ラインノイズは交流電流によるノイズのことで、関東では50Hz、関西では60Hz、国によっても異なる。この帯域をバンドストップフィルタでカットする処理を一般に行う。これは当然使用した方が良さそうなものだが、驚いたことにラインノイズをカットしても特に改善がなかった(条件間で有意さが見られた電極数はとくに増えなかった)。ただし、ラインノイズが4SD超えるチャンネルを除外するとデータが改善するという結果は得られ、チャンネル除去は有効なようだ。

再基準化(Re-reference)
一般に、脳波はたとえば耳たぶ等をリファレンス電極として計測したのち、連結マストイドや全電極平均などに再基準化すると良いとされている。しかし、すべての再基準化(Linked mastoid, Linked earlobes, Nose, Cz, PREP, Average (EEGLAB), Average (FieldTrip), Median, REST, Longitudinal, Circumferential…知らないものもある)は有意な電極を減少させた。

各ツールボックスの自動ノイズ除去
EEGLABやFieldTrip, MNEといった脳波のツールボックスにはそれぞれノイズ区間等を除去するアルゴリズムが実装されている。ここに関してはかなり色々な手法があるためまとめるのが困難だが、結論としてはあまり有効とはいえない、ということになっている。ICAによる自動眼球運動/筋電ノイズ除去すら特に効果なし、という結論になっているのは驚きである。

ベースライン除去
ERP解析では一般に、刺激が出る前の区間をベースラインとして、この区間の電位を基準としてエポック全体のデータを補正することがある。これはとてもメジャーな方法だが、特に結果を改善することはなく、それどころか悪化させるケースもあった。

結論

ということで、これまでメジャーに用いられてきたノイズ除去の手法はほとんどが効果なし、という驚きの結果であった。しかし、先述したようにこの結論にはいくつかの批判があるので、それを次項で紹介する。

批判

Daniel Feurriegel氏による批判

  • 精度の指標が不十分

  • 例えば瞬きが条件間で異なる場合(例えばOddball課題のOdd条件で瞬きが増えるetc)、ノイズ除去しない方が、脳波には差が現れることになる

  • Ground Truthと言える基準が必要。例えば脳波データに「真の認知活動を反映するシミュレーションデータ」などを加え、下処理による差を比較するなどが求められる

  • 0.5HzのハイパスフィルタはERP波形を歪ませる可能性があるらしい[ref]

  • P.S.で、こういった論文により脳波下処理の研究が加速することは望ましいと話している

Simon_ruch氏による批判

電極の再基準化によって、条件間で有意な差が見られた電極数が減り、これは下処理として性能が悪いと論文では主張している。しかし、有意な差がみられたチャンネルが減ったということは、空間的な精度が上がったとも捉えられる。

私見

最後に私見をまとめていく。

まず、「脳波の下処理はしない方がいい」という主張をEEGLABの開発者が発表したことはとてつもないインパクトがあった。実際、多くの下処理は実はあまり意味がなく、下処理をほとんどしなくても良いのかもしれない。

むしろ、脳波の下処理(例えばノイズ区間の決定やICAで除去する成分の決定)を目視で主観でおこなっている現状の方が大きな問題と言える。下処理をしてもほとんど変わらないのであれば、もはや「脳波の下処理は何もしない」方が、研究者間での処理が一貫することで研究の再現性も上がるし、社会実装もしやすくなるといえる。時間的なコストも大幅に減る。

ただし、批判の項にあったように多くの疑問点も残る。
批判で指摘されていた通り、指標が特殊であるということがいえる。Feurriegel氏が指摘していたこともそうだが、今回比較の対象としたのは「100ms区間の」「電位」のみである。しかし、脳波は当然それ以外の区間も解析対象となるし、電位だけでなく周波数やその位相などもメジャーな解析対象である。これらの処理において、ICAが意味を持たないとは流石に思ない。また本文の考察にも記載があるが、計測データが十分きれいなことが前提となっている。得られたデータのノイズが多い場合にはノイズ除去等の下処理はやはり重要だろう。さらに、Ruch氏の指摘と同様、再基準化はそもそもノイズ除去の方法ではないので、今回の手法とは整合しない。例えばラプラシアン導出による再基準化は空間的な精度を上げる手法だから、今回の基準では有意な差が見られた電極の数を減らす(=有効でない)ということになってしまう。が、それは正しい結論とは言えない。

とはいえ、この論文がもたらすインパクトは非常に大きいと言える。
第一に、脳波の下処理は過剰にやらなくてよいということは今回の論文から感覚的に伝わる。過剰に下処理をしないことのメリットは結構大きく、(1)時間的コストの軽減、(2)主観という基準の排除、(3)研究者間での下処理の統一がしやすくなる点、(4)社会実装が容易になる点、などが挙げられる。
第二に、この論文を基準に最適な下処理の研究が加速することが予想される。実際、既に後追いの論文がbioRxivに報告されている[ref]。

まとめとして、脳波の下処理の慣習に一石を投じる重要な論文であったと言える。脳波の処理は非常に多くの研究がありとても追いきれないが、基礎研究的視点においても、社会実装的な視点においても今後の展望には着目していきたい。



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