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私有財産権について〜あなたの能力と成果はあなただけのものか?〜

まず、私は社会主義ファシズムに対して徹底的に反対することは明確にしておきたい。まあ、これに賛同する人はいないだろうが。私がここで提起したいのは、私のものとあなたのものとの境界線は一体本当に存在しているのかということである。

能力・財産の個人所有は可能か?

能力や知識、財産は「持っているかどうか」が常に問われている。しかし、能力は「持つ」ことが果たして本当に可能なのだろうか?そして、その能力を行使して獲得した財産はあなただけのものだろうか?政治哲学者マイケル・サンデルは、あなたの才能がうまく発揮されるかどうかは環境と運にかかっていると言う。つまり、どれだけあなたが勉強ができる才能があろうと、そもそも勉強ができることを評価してくれる社会にたまたま生まれただけであり、それはあなたの功績とは呼べないのである。したがって、そのような運によって学歴を獲得し、良い社会的地位につくことで得た財産はあなたのものとは言い切れない。社会全体で共有すべきものである。さらに、努力することもまた努力することで肯定され、努力することができるように育った家庭環境や社会的背景によるものであって、あなたの実績でも成果でもない。勉強するという才能があなたにあったのも、それはあなたの成果ではなく、たまたま生まれた時からそうだったというだけであって、それによる対価を独り占めできる根拠にはなり得ない。サンデルは、私有財産権の否定を意識しながら、能力の発機による成果や報酬は私的所有できるようなものではなく、社会全体の成果であることを強調する。また、能力の定義についても再検討の余地を残す。能力とは「たまたま社会がそれを求めた」という性質のものである以上、能力を所有するということはできない。なぜなら、能力の定義は他者によってのみ行われるものであり、その定義次第であなたは能力があるとか、ないとか簡単に変わってしまうからである。能力は他者を介してしか、2名以上の社会でしか出現しない概念である。これらは一体何を意味するのか。

能力・財産はシェアする義務がある!?

能力や成果は、自分自身だけのものではないとなると、それをシェアしなければ不平等だということに当然なる。もっとも顕著なのは、税金の徴収による社会保障であろう。あなたの所得から税が引かれるのは、その収入があなたの所有物ではないからに他ならない。これによって他の者があなたの財産を使って生活上の恩恵を受けることは何らおかしいことではない。私有財産権を認められないのだから、分配することは義務である。また、能力についても同じことが言える。私は自動車運転の能力があるから遠くへ行ける。あの人は自動車運転の能力がないから遠くへ行けないというのは不平等である。そもそも運転が得意かそうではないかというのは、運による。加えて、運転免許を取得し、車を所有できるかどうかも家庭や経済状況によって異なる。私だけにこの能力があるから、私はその利益を独占できるという価値観は、このような社会的・経済的背景を無視し、運による影響も忘れてしまう。車を運転できるものは、できる限りその能力によって自分以外の他者をもその恩恵を受けられるように努めなければならないはずである。「能力」と呼ばれる要素は、それがなければ生きづらいものになってしまっているからこそ、社会的に求められるのである。だからこそ、その能力がある者はそれを周囲に対してもシェアする必要性があり、それによって「能力」を持たない者も安心して生きていける社会が作れるのだと思う。

全ての人の生存権を保障するために、あなたは能力をシェアしなければならない。

能力は誰もが習得(!?)を目指すことができるわけでも、誰もが習得(!?)することができるわけでもない。どれだけ教育しようと識字能力がない人は必ずどこかに存在する。1人でも文字が読み書きできない人がいる限り、文字の読み書きが「できる」ことを前提に社会システムを構築すべきではない。それは生きていく権利(生存権)に「ただし読み書きができること」という条件をつけ、そうでない者を例外にしてしまう発想である。生きていく権利を保障するために、基礎的な能力を育む必要があるという語り方は大間違いである。能力がなくとも、誰かがその能力をシェアすることで問題なく生きていくことのできる社会をつくらなければならない。「田舎に住むと運転免許がなければ人権がない」という有名な話は、まさにこれを象徴している。人権に例外を作ってはならない。移動する能力、誰かを移動させる能力を有する者は、それが自分やその家族だけのものではないことを自覚しなければならない。読み書きができる者は、その能力が自分だけのものではないことに改めて気づき、誰かの手紙を代わりに書かなければならないのである。これは「やってあげる」ではない。それが当然の対応なのだ。能力がないから誰かが生きていけないのだとしたら、その人は生きる権利を保障されていない。その人が「できる」ようになる必要もそもそもない。今のままで問題なく生きていけるようになるために、あなたが能力をシェアしなければならないのだ。これは能力の社会的所有(私有財産の対比概念)の提案である。

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