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イヴァン・イリイチのいう「ネットワーク」とは何か?(インターネット?ブロックチェーン?)

イヴァン・イリイチは、『脱学校の社会』において官僚主義的な学校制度に代わる代替案をラーニングウェブとか、学習のためのネットワークという言葉で表現した。これはつまり、集会をしたり、読書会をしたり、技能を教えあったりするネットワークのことである。

発想自体は非常に素晴らしいものだと思う。中央集権的な学校制度ではなく、自律分散型・自立共生、相互扶助型の学習環境ができる方が、明らかに国家主導の全体主義的な学習は進まなくなるだろう。そして、民主的な学び合いができると確信した人々は、自分たちの学ぶ力や生きる力を再認識し、学校に通う必要性が必ずしもなかったことを思い出すだろう。

このネットワークは、まさに「インターネット」のことであるという主張は幾度と無くなされてきた。確かに、インターネットがここまで発展した結果として、学校不要論はますます大きくなった。実際、学校に行かなくとも学ぶことは容易になったし、何か特定の技術を学びたければ、学校よりもむしろ詳しい人をネットで探すだろうし、独学はかなりしやすく、仲間も集めやすい。私としては、これを良い流れでもあるように思う。ただし、イリイチのいうネットワークが本当にインターネットであったかどうかは、イリイチが亡くなっている以上、どうしても確認することはできない。ただ、私の感覚としてイリイチがイメージしたネットワークはインターネットに近い部分もあるけれど、 そうとも言い切れない感じもする。

イリイチの期待したテクノロジーは、ブロックチェーンではないのか?

では一体イリイチのいうネットワークとは何か?それはブロックチェーンではないだろうか?イリイチは専門家支配、すなわちテクノクラシーを批判する立場であるが、テクノロジーの可能性を信じている側面もある(一方で、その危険性も認識している)。イリイチはマスメディアを痛烈に批判しており、その理由は民主的な媒体ではないからというものである。一般読者はマスメディアに参加することはできない。また、マスメディアの報じる内容を批判的に考えさせないこともできる。だから、イリイチにとってマスメディアは学校化されたものの象徴でもある。一方で、インターネット(特にSNS)は誰もが発信することのできる民主的なメディア、、、のように見える。しかし、これも何とも言えない側面がある。つまり、SNSを運営するGAFAと呼ばれるようなIT大企業が存在し、これらの一存では特定の情報に誘導されたり、広告をカスタマイズされたりと、官僚主義的・テクノクラシー的側面があるからである。したがって、イリイチの目指した学びのためのつながりを作り出すネットワークとしての機能はある程度果たせているとしても、現状はその権限が一部の企業に集中している中央集権型なのだ。例えば、Facebookが明日から使用禁止にしたり、経営方針を大幅に変えてしまえば、繋がりは途絶えてしまう。このような状態をイリイチが許すとは到底思えない。ただでさえ、イリイチはネットワークの運営を教師などの権威主義的な存在に任せることはできないとしているのだから。

誰も一人勝ちしない理想的なブロックチェーン

しかし、ブロックチェーンは誰も一人勝ちしない、一切中間で利益を取らない理想的なテクノロジーである。前の記事では、ブロックチェーンが無政府主義的な発想から生まれたことを説明したが、中央集権的とは真反対なブロックチェーンは、学習のためのネットワークに最適ではないだろうか。例えば、ブロックチェーンを用いたSNS(使用はFacebookと全く同じでも良い)は技能の教え合いや集会の実施、読書会の開催などに大いに役立つだろう。ブロックチェーンの技術がイリイチっぽいというよりも、ブロックチェーンが生まれた歴史的な理由・思想の背景こそがイリイチっぽいのである。学校制度が中央集権的、既存のインターネットが半中央主権的とするならば、ブロックチェーンは完全自立分散型である。もちろん、イリイチは(当時の技術レベル的に)学習のネットワークをある程度政策的に進めていくつもりだっただろうし、ネットワーク運営者が人と人とを繋げる時の人為性は覚悟していた。この批判は真摯に受け止めている。

ただ実際には、SNSを現在運営している企業たちが政治的・社会的に相当偏らない限り、ブロックチェーンによる学習ネットワークと今のインターネットによる学習は大差がないだろう。それでも、官僚主義・権威主義を批判していくという姿勢は忘れてはならないだろうし、今の社会では学校に頼らずとも自分たちの力だけで学ぶことができていると言い切ってしまうことには危険性がある。教育"産業"、教育"業界"はかなりの盛り上がりを見せており、塾に通えば学習できると考えてしまうことも、結局は塾の運営者のコントロールを安易に受け入れてしまう。ユーキャンで学ぶことも同様だし、すべての教育産業サービスを受けることは、自分の力で学び、様々なことに批判的でいられることを意味するのではない。結局カリキュラムが終了することを学習したと混同してしまいかねない。

要するに、生殺与奪の(学習)権を他人に握らせるな!ということだ。

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