【小説】耳を傾ける 第4話

※一話完結ですので、お気軽にご覧ください。

雪深い地方都市にある喫茶店『中継点CAFE』に、話を聞くことが得意な人がいるらしい。みんな自分が悪いんだと泣いてる人や誰も私を分かってくれないと怒り狂っている人を見つけたら、『中継点CAFE』を知る人たちは通りすがりに言います。「百坂さんのところに行ってみたら?」ーー。

 CAFEって言うくらいだから、たまにみんなと奮発して、模試の打ち上げみたいな時

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大検学校

日本の(世界の)青春は

 学校によって 奪われていました。

 ですから 大変なもんだいですが

大検(現在高認)があるので 大丈夫です。

「奴隷」は自ら「奴隷になる人生」を選択している。

僕も、よく批判をされるのでその事について書く事にします。

この間実家に帰省した際、家族(親族を含む)と食事をした時の会話。

▼「あんた今、東京で何してんの?」

僕「色々、面白い事やってるよ。」

▼「まだ戦隊ヒーローになれると思っとんの?」

僕「んー、なれるんじゃね?」

▼「“馬鹿”じゃねーの。」(失笑)

頭では分かっていたようですが、「血の繋がり」と「経験」は全くの別物であることをこ

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学校の存在の有無は、人間の幸福の条件となりうるか?--脱学校とは[4]--『脱学校的人間』第七章

人は一般に、「社会をよいものにするために、悪い社会を変えようとする」であろう。社会をよいものにすることが、人が幸福に生きることの条件であり、またそのように考える限りで、人はあるいはそれを「自分自身の人生の目的とする」だろう。「この目的が達成されたあかつきには、自分自身もまた幸福になれるのだ」と、彼は日夜その「条件を満たすため」に奔走することであろう。
 しかし、はたして本当に「人々が不幸なのは、現

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イリッチの脱学校論が単なる教育論に落とし込まれていることの不幸と、彼自身の引き起こしている脱学校への認識的な誤謬。--脱学校とは[3]--『脱学校的人間』第七章

「…単に制度だけでなく社会のエートスをも「脱学校化」(deschooled)しなければならない…」(※1)とイリッチは言っているが、一方では、「…脱学校化は、教授と学習の世俗化でなければならない…」(※2)とし、また、「…最も広い意味において学校を廃止することを求めることと、それに関連して教育に対する自由を保証すること…」(※3)が必要なのだ、とも言っている。
 結局、イリッチは一体何をしようとし

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教育の相対的価値=valueと本来的価値=worthをめぐる、対立・混同・共依存。--脱学校とは[2]--『脱学校的人間』第七章

学校による一元的な価値の制度化を批判するイリッチの、その教育をめぐる「価値観」について、山本哲士が次のように概説している。
「…「学校化への分水嶺設定(Alternatives to schooling)」と題する『サタディ・レビュー』誌での論文が、イリイチの学校化論の中でもっとも簡明にまとまったものです。そこでイリイチは「影のカリキュラム」の役割を次のように示しています。
(一)学校を通してのみ

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脱学校への一般的な期待は、「学校の代わり」に対する一般的な欲求にすぎない。--脱学校とは[1]--『脱学校的人間』第七章

「脱学校」とは、一体何のことだろうか?
 「脱学校」とは、たとえばただ単に「学校なんかなくなってしまえばいい」などというような、マヌケで安直な話ではない。むしろそういった「学校なんて、なくなってしまえばいいのに」という「期待」の裏には、「学校とは違うものがあったらいいのに、という期待」が、あるいは、「学校とは違うところに、学校のようなことをやらせることができたらいいのに、という期待」が、隠されてさ

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「明日になれば」という期待を胸に、人々は空虚な器を抱え彷徨う。--人間の学校化について[4]--『脱学校的人間』第六章

「…現代は当て込みの時代であって、真価の承認さえが前払いを要求されるのである…」(※1)とキルケゴールが言ったそのおよそ100年後、「なお今だ当て込みの時代であった現代」を、カミユは次のように描写している。
「…ぼくらは未来を当てにして生きている、「明日」とか、「あとで」とか、「あんたに地位ができたら」とか、「歳をとればお前にも解るさ」とか言いながら。…」(※2)
「…日常的人間はさまざまな目的を

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期待していたような自分になれなかった者にとって、自分自身は負債であるのにすぎない。--人間の学校化について[3]--『脱学校的人間』第六章

「…期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する…」(※1)ものであり、また、「…自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである…」(※2)とイリッチは言う。「計画され統制された結果」とはつまり、「予測可能な過程にもとづく結果」すなわち、「そうなることがわかりきった結果」ということであり、それを「自分の権利として要求することが

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「能力」に意味づけられた労働力の価値は、労働者自身に内面化される。--労働の学校化について[22]--『脱学校的人間』第五章

買われない労働力の買われない理由はあくまでも、その労働力がその他の労働力と比べて高くつくからという、「相対的な理由」としてあるはずなのだが、それが、「その労働力には能力がないから」という理由に還元されると、あたかもそれが「その労働力自身の内在的な理由」であるように転化されることになる。相対的な理由の、相対化の対象から切り離されて、まるで「それ自身の理由として自立している」かのように見なされることに

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