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「自由放任」の子育て〜哲学的子育て論〜

自分の経済資源を好きなように消費する自由の中には、子供を持つために消費する自由が含まれている。言うなれば、消費の特殊な形として子供というサービスを買うのである。

ミルトン・フリードマン

私はこのフリードマンの表現を目にしたとき、あまりにも衝撃的であった。昔からあった「親」や「大人」に対するモヤモヤが一気に晴れた気がしたからである。つまり、親たる大人は子供のことを商品として消費するのである。またそれは、子供が生まれる前段階においては、経済資源を好きなように消費する自由によってそれが保障されていると言う。しかし、子供が生まれれば、その自由は強力な制限が加わることとなる。その制限とは、子どもの主体としての自由によるものである。自由は、他者の自由によってのみ制限されるからである。

しかし、大人は子供の自由によって、自分の親としての自由が制限されていることを忘れがちである。そして、子供を所有物かのように扱うことに慣れている。一つ例を挙げるとすれば、財産の用途を親は制限している。「お小遣い」は、ある種の裁量権を一定の範囲(金額内)で子供に認める良い制度である。しかし、大概の金銭は、親の許可を取らなければ、習い事に通えなかったり、道端でお菓子を買えなかったり、おもちゃを買えなかったりするものである。いずれにしても、子供の金銭的裁量権は極めて小さく限定された子育てを、一般に「子育て(子供が育つのではなく、大人が子供を"育てる")」と呼んでいるのである。

親の裁量権を徹底的に縮小し、子の裁量権を最大化する子育て法

ここまで話してきた内容から分かる人は分かるかもしれないが、私はリバタリアンである。リバタリアンが支持するリバタリアニズムという思想は、自由至上主義と訳されることが多い。つまり、自由を徹底することこそ正しいという考え方なわけだ。もちろん賛否はあるだろうが、私は中世以前の価値観に従って、7歳以上の者は「大人」と認識している。7歳を超えれば、選挙権を与えて問題ないと思っている。これは言い過ぎだとしても、そんなリバタリアンの構想する子育てがどのようなものかを読んでいただきたい。

まず、「子育て」という言葉それ自体が自由を奪う介入である危険性を理解しなければならないだろう。そこで、親たる者の裁量権を徹底的に奪う方法を検討した結果、子に現金を給付する方法がベストであろうという結論に達した。

①可能であれば、子を産む前に1000万円を用意する

一般に、子どもを1人育てるには1000万円〜2000万円かかると言われている。教育費は、限りなくかけようと思えばかけれてしまうという性質上、どこかに上限を設ける必要はあるかもしれない。とりあえずは、平均的な金額(ここでは1000万円と想定する)を子を産む前に準備しておくことがベストである。

そして、子が7歳を迎えた段階(必ずしも7歳である必要性はないが)で、1000万円全てを子に直接現金で支給するのである。

子にかかる全ての学校の学費、教科書費、制服費等々、すべて本人から振り込んでもらう。なぜこうするのかというと、子供がそもそも小学校や中学校というような学校制度を利用したくない可能性があるからである。学校制度を利用しないと本人が望む場合は、他の別の習い事か何かにお金を使えば良い。もちろん、ゲームをするでも構わない。なぜなら、我々親側が不正解だと思っている選択肢は、次世代の正解かもしれないからである。私たちは市場が導き出す答えを当てることはできない。ハーヴェイロードの前提などないのである。用途は完全に子に委ねる。

もし一括で1000万円を払うことができない、または怖いというのであれば、7歳〜17歳までの10年間で毎月100万円ずつ支給する方法はどうだろうか?もう少し伸ばして、7歳〜22歳の15年間で、最初の5年と後半の10年で金額を変更しても良いかもしれない。ただし、この方針を取ることが介入のし過ぎかどうかを慎重に検討する必要がある。

②家を与える

現金支給だけでは生活がままならないかもしれない。そこで、子供部屋を与える代わりに、アパートでも良いので一部屋を借り、そこを子の家として貸し出すと良いのではないか(貸し出すと言っても家賃は無料か破格とすれば良い)。なぜなら、親と同じ家に住むというのは一人の人間としてプライバシー権を保障されていないからである。よく考えれば、子は親と住むことに同意していない。そもそも生まれてくることにも同意していないし、子と親という関係であれ、他者であることには変わりがないのだから、同意のない他者と同居を強制されせられるのは、なんという拷問だろうか。したがって、私は親と子が強制的に同じ家に住むのは子の権利の侵害だと考える。もし、いわゆる親子のような関係が良好に築けたのならば、家をそれぞれ所有しながらも、行き来し、夕飯を一緒に食べたり、一緒に寝たりすれば良い。その時はそうすれば良いのであって、最初から家を同じにする必要はない。

③扶養者控除により利益となった金額分は、別途現金給付する

親は、子のマイナンバーを利用し(子という存在に依存し)扶養者控除によって利益を得ている。控除とは、給付金と全く同じものである。やり方は違えど、この給付金の所有権が誰にあるのかということは議論する価値があるように思う。この扶養者控除とは、子を育てる(扶養する)の親の負担に対して支給されるものだという認識は間違っていると個人的には思う(そもそも扶養制度それ自体が、子や配偶者を世帯の奴隷にする制度だとも言える)。仮に、親に対する支給だとしても、それは①の1000万円に含めて子に支給していると解釈すべきである。扶養制度を利用する以上、子の選択肢を奪うことになる。つまり、仕事によって103万円以上の収入を得るチャンスを奪っているのである。子が働く自由を制限したことによって親に利益が生じているという状態は許されない。仮に、扶養者控除の利益を得るにしても、扶養制度を利用するか否かは、被扶養者自身が決めることであると私は思っている。

※扶養控除は、平成23年を機に一部廃止、減額されている。その代わりとしていわゆる「子ども手当」が支給されるようになったのが24年である。扶養控除よりも子供手当として支給される方が、より子供が所有権を持つ資金というイメージがしやすいだろう。

私はリバタリアンとして、やはり所有権は重要な概念だと思っている。だから、私は私の正当な所有物に対する権利を必ず主張する。これに関して一文たりとも負けることはない。しかし同時に、他者に所有権のあるものに対しては、公正に扱い、決して自分のものにしよう(独占しよう)などとはしない。扶養者控除による利益は、私が所有権を持つと言える哲学的根拠が見つけられない。したがって、子に直接渡す。

子の財産権の範囲

疑問に思っているのは、子は親の財産に対してどこまで所有権を主張できるのかということである。財産は有限であり、子であるからといって無限に所有権を主張することはできない。しかし、子は産まれることを自ら望んだわけではない、ある意味では客体である。その子供に生きるための労働を課すことは間違っているような気もするし、間違っていないような気もする。私が1000万円の現金給付を提案しているのは、少なくとも子供を育てるのに必要なその時代の平均程度の教育養育費用は、子供が所有権を持つのではないかと考えているからである。一応は、そのラインを子の財産権の範囲の限界として設定し、それを超える場合は18歳を超えてから自分の名義で借り入れるか、奨学金を獲得すれば良いのではないか。

結論:とにかく子の選択の自由を最大限に尊重する方法として、現金給付を行う

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