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商品化される「教育」

「塾」というのは日本特有の商業施設です。

商業施設などとひねくれた言い方をするのは、塾が教育という公共の財産を「商品」に作り替えているからです。

商品やサービスとしての教育が求められる社会は適切とは言えません。

しかし、だからと言って塾に勤める人を断罪するつもりもありません。

なぜなら、その元凶は塾ではなく「学校」にあるからです。

塾の費用を税金から出しても問題は解決しない

稀に、地域によっては塾代を支援しようとか、NPOによる無償の学習塾の設立によって教育格差を縮めようという試みがあるようですが、これは問題の所在を勘違いしています。

問題があるのは塾を必要としてしまう「学校」です。

教育を受ける理由、学習する理由が競争原理に基づいている限り、教育費は永遠に十分だと言われることはないからです。

哲学者のイヴァン・イリッチは教育の費用について以下のように指摘しています。

合衆国は世界に次のことを証明しつつある。つまり学校があるというだけで学校に対して生じてくる需要を満たし得るような学校制度を備えられるほど経済的に余裕のある国は世界のどこにもないということである。なぜならば、うまくいっている学校は、学校での教育を通じて両親や生徒にその学校よりもっと上級の学校のもつ最高の価値を求めるようにさせるのであり、誰もが上級の学校へ進学することを欲し、その結果それが稀少なものになるにつれてその価値を獲得するための費用は、比べものにならないほど増えるからである。

(イリッチ『脱学校の社会』p.28)

イリッチ紹介

要するに、学校制度がある限り、より良い学歴を獲得して社会的に有利になったり、そのために良い教育を受けようとすることは当然であり、

そのための良質な学校教育(あるいは塾などの教育サービス)を永遠に人々は消費するということです。

これではいくらお金があっても、教育費用を賄うことは理論的には実現不可能ということになります。

「質」が求められる"教育サービス"

教育が「商品」になれば、質が求められることになります。

サービスとして効果があるか、興味深いものになっているか、授業は効率化され、わかりやすいか、が常にチェックされます。

しかし、学びとは「効率化」されたものなのでしょうか?

そもそも効率化するにはゴールを設定できるような計画的なものであることが前提になりますが、果たしてそうでしょうか?

イリッチの答えはNOです。

ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。

(『脱学校の社会』p.33)

塾業界・教育産業から教育を「取り返す」

先日、学校から学びを取りあえすという記事を書きました。

これは学びが学校に独占されているというイリッチの指摘を日常生活レベルで感じてきた問題意識に落とし込んだものです。

ただ、この学びを「取り返す」という感覚は教育を商品化している塾業界・教育産業にも言えると思います。

なぜなら、学びを競争化させている、あるいは無駄な競争による「需要」を作り出し、勉強という形で生徒に消費させている元凶こそが教育産業だからです。

このような「学習消費社会」とでも呼べる状態

(マックス・ウェーバーは近代以降に出現した消費・市場の拡大を重要視する社会を消費社会と呼び批判しましたが、それに似ていると思います)

を支えているのは、学校であり、それを支援する教育産業でもあるのです。

学校の存在自体が学校教育の需要を生み出すのである。p.80

塾に勤める人を断罪しないと冒頭で述べたのは、教育産業の拡大は(学校のあり方によっては)必然だからですが、

個人単位では「商品」としての教育の消費には気をつけたいところです。

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