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【ネタバレ批評】『映画大好きポンポさん』捨象しきれなかった方の90分間

『映画大好きポンポさん』を観てきました!

僕は映画のことは全く詳しくないし、作劇のこととかもよく分からないけど、
ああいう、才能のある人間が自分の仕事(そして人生)と向き合う話って、ものすごくいいよなぁ〜、と思いました。
ジーンときた。なんちて。

さて、今回は批評の真似事をします
読解力が低いというか、受け取るものの解像度が粗々なタイプなので、普段は漠然と(いいなぁ〜)と思ったところしか言わないし言えないのですが、
今日はしっかり言いたいことがある、気がする。

あくまで個人の感想です。
ほぼ全編、僕が感じた一つの大きな違和感について語っています。つまりネガティブ寄りな感想です。
やや強調した表現を使っていますが、お気を悪くなさらず、映画・アニメ素人の戯言と流してもらえればと思います。
そして、当然ながらネタバレ満載です。

まず、前提として-この作品の主題

一言で言えば、この映画は、ジーン・フィニが“無類の映画好き”から“一人の映画監督”になるまでの物語だと思います。
自分の才能を無邪気に扱う一人の少年(そんな歳でもないかもしれませんが、ニュアンス的にそう言わせてください)から、一人の観客(=ポンポさん)のために映画を作る監督(プロ・大人)になるまでの話。

少年から大人への変化が最もよく現れるのは、作品のために頭を下げる二つのシーン(追加撮影・入院後の編集続行)……ではなく「編集作業のシーン」で、ここが画的にも物語のクライマックスになってきます

最初、15秒トレーラーを作る際には『何を見せるか、想像させるか』を考えるのがジーン君の仕事でした。どこまで削れるか、という言い方はされていましたが、本質的には足し算の編集です。
描きたいものがあれば成立する(才能があればできる)試練だった。

でも、新作『マイスター』の編集はそうじゃない。撮ってきたものを削除しまくるのが彼の仕事だったわけで、そこで失われたものはもう戻ってこないのです。
ペーターゼンさんが今でも趣味で過去のフィルムを切り貼りして“ありえた物語”を作っていることから分かるように、そこには、巨匠にも拭いきれない大きな喪失が伴います。

後者の編集を乗り越えて、ポンポさんが喜ぶ尺の映画に到達できたから、ジーン君はもう、ただの映画バカじゃなくて、立派な映画監督なんですよ……というのが、この話の主軸だと、僕は考えています。
大事なものを、もっと大事なもののために切り捨てられる人間が、本物のクリエイターになれる。
このことは劇中映画の『マイスター』でもはっきりと示されています。

ここからが本題です-アラン君のエピソード

この物語には、アラン君というもう一人の主人公が登場します。
物語冒頭にポンポさんが言っていた「目がキラキラしていて、成功体験が多い分人間性が浅い」タイプそのまんまのアラン君。
情熱を向けられるものがなかった彼が、ハイスクールのナードだったジーン・フィニのひたむきさに憧れて大胆な作戦に出る中盤の一幕は、この作品の大きな盛り上がりどころの一つです。
ポンポさんに向けて映画を撮るジーン君と同じように、ジーン君に向けて融資取り付けの計画を実行するアラン君は、まさしく第二の主人公と呼ぶに相応しい。

問題はそこなんです。
本編との繋がりも自然で、飽きを来させにくくする良い話でしたが、だからこそ、このエピソードは差し込むべきではなかったと僕は思う。

融資の取り付けシーンを丸々挟み込んだこの映画の構成は、大雨のシーンを使わなかったジーン君の決断の意味を、やや薄めてしまったように思うんです。

ジーン・フィニは映画の煌めきを感じられるような最高のワンシーンを“映画”を成立させるために切り捨てて『マイスター』を90分に絞り込んだ。
一方、『映画大好きポンポさん』はアラン君の成長というサブエピソードを盛り込んだ上で90分に仕上がった。
この二つでは、同じ90分でも意味合いが全く変わってしまうと思うんですよ。

選択しなければならない、それ以外は全て捨てなければならない、Delキーを叩き続けなければならない。そのシビアさが、果たしてこの映画自体にはあったのか?
僕はそこのところで、ずうっとモヤモヤしているんです。言ってることとやってることが違うじゃないかと思ってしまうわけです。

アラン君の役割-主題との繋がりとズレ

もちろん、アラン君も“全てを捨てる覚悟で”賭けに出るというシナリオになっています。でも、アラン君は元々銀行を辞めようと考えていたわけですよ。
彼にとっての“仕事”は、マイスターにおける“家族”やジーン君にとっての“素材”のような、捨てる際にどうしようもない痛みを伴う概念ではない
だから、やっぱり中盤のサブエピソードは物語の主題と直結してくれていないんです。

また、『マイスター』の帝王を補完してくれるようなキャラ付けは為されているかもしれません。
都会に疲れた状態で無垢な存在(少女→ジーン君)に出会い、情熱を取り戻す……というような流れを辿っているから、映画に共感する観客の一人になるのは頷ける。
でも、アラン君はジーン君やポンポさんとは根本的に別の存在、一つを究めるのではなく何でもこなせる人としてのキャラ付けを与えられています。
だから、やっぱり、帝王(クリエイター)と同じ質の苦悩や葛藤を抱えているわけではないんです。

彼はやっぱり、どこまでいっても、ジーン君たちとは違う視点から、物語を提供してくれているキャラクターなんですよ。
そして、視点が異なるキャラクターを埋め込んで、描くテーマを増やすこと自体、作品の主旨に沿っていないのではないか?というのが、僕が今回、しつこく何回も繰り返している疑問になります。
次とその次の項でもう一回、もう一回同じ話を繰り返すので、もう分かったよ!という人は「散々文句をつけたものの」の項まで飛んでもらって大丈夫です。

もう一度確認します-この作品の主題

ジーン君はナタリーちゃんの初出演シーンを切り捨てる際に「でも、このシーンがなくても話は繋がるから……」と言います。
さらに遡って撮影が始まる前、コルベットさんは「一人のために作らないと作品の輪郭がぼやける」と忠告していました。
さらにさらに話を戻せば、ポンポさんは「軸さえ決まったら」面白いものが撮れると豪語していたんです。

そしてそれは映画だけの話じゃない。
人間もまた同じです。
『マイスター』は、全てを捨てて音楽だけを追い求めた帝王が、自然の美しさや少女との交流を通して変化した上で“それでもやっぱり音楽しかない”と結論づけることで結末に向かっていく物語でした。
ジーン君は映画が本当に好きで、いくらでも映画が観られる人間なのに、最後にはその煌めきを知っているいくつもの名シーンをカットしていきました。なぜならそうして切り捨てて切り捨てて残ったものが映画で、彼には“映画しかない”から。
映画(作品)のために映画(シーン)を殺すという選択をして、ジーン君は本当の意味で“映画しかない”人間になった。

得るものをたった一つだけ選び、
それ以外を切り捨てることで傑作になる。

映画も人間もそれは同じ。
それが、この作品の主題だったと僕は思うんですよ。

モヤモヤの正体

じゃあ、この『映画大好きポンポさん』という映画自体がそれを実行できていたのか、という点に……僕は疑問が残ります。
スピンオフが紛れ込み、群像劇の様相を呈していた。結果として「映画の輪郭がぼやけて」いた。

別にそういう作品が嫌いだとか言うわけじゃないんです。むしろ、群像劇は好みな方です。
散文的に物事が起こるのは好きだし、主人公の悩みとは違った悩みを抱える人物が登場するのも好き。
でも、この作品は、そういうものを捨てざるを得なかった天才たちの賛歌じゃないですか。

切り捨てて切り捨てて、最後に残ったたった一つのもの。それを描くためには、本編でやったような撮り方をすべきだったと思うんです。
つまり、この作品にとって必要なシーン(ジーン君の喪失にまつわるシーン)をもっと描いて、
原作にはないが閃いたシーン(アラン君の爽快なシーン)を泣く泣く切り捨てること。

一番好きなシーンを挙げられないくらいの徹底した決断が、この“物語”には有って……この“映画”には無いように思いました。

散々文句をつけたものの

……とまあ、このくらい唾吐き散らかして早口で語りたくなるほどにはこの作品、最高でした。
もう観た人しか来ていないと思うんですが、万が一まだ観ていない方でここまでスクロールしてしまった場合はもう、ぜひぜひ観に行ってください。
ストーリーもキャラクターも情景も演出も惹き込まれます。僕ももう一回は観に行きたいと思ってます。

もし「もっとこんな見方をすればいいんじゃない?」といった話などあれば、コメントいただけると嬉しいです。
昨日一回観て、印象だけで書いてしまっている部分もあるかもしれないため、見落としている描写も沢山あるかと思います。
異論・反論・別解等々どしどしお待ちしております。

それでは!

常に前よりダサい語りを心がけます。