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伝説に彩られた古代山岳寺院 池辺寺跡🐉 【後編】

こんにちは。今回は熊本市西区の国指定史跡•池辺寺(ちへんじ)跡散策レポートの後編です。奈良時代初頭(和銅年間)に創建され、平安時代初頭(9世紀代)に現地に建立されたとされる池辺寺跡は、龍伝説や、全国に類を見ない整然と並ぶ百基の石塔が特徴的な山岳寺院跡です。私は平安初期の熊本にこんなに壮大で独創的な寺院が存在していた事に驚き感動しました✨池辺寺跡の遺構についてはまだ分かっていない点も多いようですが、皆様も古代のロマンと謎を一緒に楽しんで頂けましたら幸いです💓(後編 6400字)

今回の散策地はここ!

池辺寺創建にまつわる龍伝説についての前編記事は以下のリンクから↓

それでは古代池辺寺跡散策レポート、早速行ってみましょう🏃‍♀️

池辺寺遺跡の東側前面には、車が5、6台停められる駐車スペースがあります。そこに駐車して、前方の風景を望んだ図↓(遺跡は背後にあります。)

遺跡のある百塚地区は、三方を山に囲まれた谷間にありますので、との方向を見渡しても山しか見えず、昔のままの雰囲気が最高です✨そして、駐車場の南側横には早速、庭園風の池の跡が。↓

駐車場と園池の間に、背後の境内に続く参道が通っていたと考えられるそうてす。そして、お待たせしました!振り返ってこちらが池辺寺遺跡になります✨↓

とても綺麗に整備された遺跡です!
全体図案内板。史跡の北側の公園には、綺麗なトイレと休憩所もあります。

因みに、集落から遺跡へ入る道は、赤字矢印で落書きしたように、二叉路を左折です。間違って真っ直ぐ行くとみかん畑しかありません笑 自分が間違ったので念のため情報共有でした。

さて、池辺寺遺跡を実際に見学する前に、例によって池辺寺遺跡の簡単な説明と、池辺寺遺跡が発掘調査により発見されるまでの感動ストーリーをご紹介したいと思います💡

池辺寺跡について

ここ百塚地区の池辺寺跡は平安時代初期の山岳寺院遺跡です。出土した土器や瓦の年代から、9世紀始め(800年代前半)頃に現地に建てられ、9世紀の終わり(800年代後半)頃には廃絶したとみられています。仏堂は、本堂の周辺3面を回廊状に囲むように建物群が配置され、背後の斜面には10×10列の100基の石積みが整然と並んでいます。以下に現地案内板の画像をお借りして、池辺寺跡のある百塚地区の周辺地形写真と、遺跡の航空写真並びに鳥瞰図を掲載します。↓

古代池辺寺跡は三方を山に囲まれた谷間にある。
遺跡の航空写真と鳥瞰図

全国的に例を見ない10×10列に並ぶ石塔群がこの遺跡で最も特徴的なものです。確かにこんな遺跡、京都でも奈良でも見たことない😳❗️因みに、鳥瞰図を見た時、私は画面下を南と見立てた場合、東に川(平川)、南に池(園池)、西に道(石塁が代わり?)、北に山で囲まれた風水でいう四神相応の地であることを表現したかったのかな?と想像しました。
※実際は正面は東向きなので違いますよね、、人吉散策で風水を少しかじったので言ってみたかっただけです😅
さて、魅惑の遺跡は後ほどじっくり見学する事にして、先ずは遺跡が発掘されるまでの経緯をみていきましょう!↓

池辺寺跡発見までのストーリー

池辺寺跡が発掘された百塚の地名は、古くから残る通称地名です。江戸時代の書物には、地元古老の話として「古の奥院及び観音堂の跡あり」と記され、地元では古くから「侍の塚がある」とか、「開墾してはいけない」と言い伝えられていた場所で、古代期の池辺寺在所の有力候補地のひとつだったそうです。
(※池辺寺自体は明治の廃仏毀釈で廃寺となるまで存続したのですが、寺の所在地は時代ごとに移り変わり、9世紀に隆盛を誇った幻の古代池辺寺が何処にあったかは後世には分からなくなっていました。)
そして、古代池辺寺の場所特定の大きな鍵になったのが、「金子塔(かなごのとう)碑文」です💫
金子塔は百塚地区から北西に500m離れた西平山の中腹に佇む建武4年(1337)建立の石塔婆で、古くから修験者が行き来する道沿いにあったと考えられているそうです。↓

現地案内板写真より

以下に、熊本市パンフレットから引用させて頂き、碑文の全文をご紹介します。↓ (散策上重要と思われる点は太字にしてみました。)

      金子塔 碑文(現代語訳)

天台別院
である肥後国池辺寺の側にある百塔は、寺の根本御座所であり、ご本尊は正観音霊像である。伝えるところによると、元明天皇の御願によって和銅年間に建立され、肥後国司綱家(字名は金子)の願望した寺であったという。仏像や百塔は、草木が姿をかえたもので、造形の□を知らない(ほどすばらしいものだった)。ところが、貞元元年正月七日に焼失してしまったので、僧らが嘆き悲しんでいたところ、空から宝幡が堂の上に飛来し、ひるがえって杉の木の上にとまった。僧たちが宝幡を礼拝したところ、仏像が分□して杉の枝に現れた。そこで御在所を寺の近くに移し、三百余年という。以来、三宝常住・万行成就の地となった。そこで霊法を末代に伝えるために、この石塔婆を建立し奉った次第である。
敬白 建武四年 丁 卯月五日 勧進衆 丑 願主 大妙

熊本市「史跡 池辺寺跡」パンフレットより

上記の通り碑文には池辺寺の由来が刻まれているのですが、「百塔が寺の根本御座所」の一文と、見つかった100基の石塔との対比によって、ここが古代池辺寺跡と特定されたそうです💡
常々思うのですが、石碑の碑文って古の先人達から後世の私たちへのメッセージなんですよね。そのメッセージをしっかり受け取り読み解いて、みごと古代池辺寺跡の発見に繋げた発掘関係者の方々もこの石塔婆のことを有難く貴重だと思ったのでしょう。史跡横の公園には、金子塔のレプリカも展示されています。碑文を読み解く作業って、碑を建てた中世(建武年間)のお坊さんと対話しているような感覚じゃないかなと想像しました✨

さて、そろそろ本当に史跡の散策に移ります💦
まずは本堂建物群から。最初に現地案内板を引用し、場所と概要を確認しましょう💡

百塚地区の東から、門と思われる入り口から左手に園池を眺めながら緩やかな斜面を30mほど上がると、正面に本堂建物群を見上げます。東に面した建物群ですが、出入りしていたのは南側面からのようです。礎石建物で、一棟ごとに基壇を設けています。中央奥のひときわ高い基壇の建物は、
塼(せん)敷き・瓦葺きの本堂中心建物です。その両脇から正面下段へと回廊のように建物がつながっています。現在、発掘調査で発見された状態で復元しています。基壇の側石と柱を立てた礎石などが並んでいます。

そして実際東側正面から本堂建物群跡を眺めた図がこちらです。↓

画面中央上よりの礎石群がそれなのですが、分かりにくいので、画面右手にある建物の復元模型を以下に載せます。↓

東側正面から見た建物模型

因みに、模型は現存する古い寺院を参考にして作ったそうですが、9世紀の仏堂は現存する建物が殆どないことから模型は復元案の一つだそうです。

東側からの遠景では何が何だか分かりませんでしたが、今度は本堂の裏側(西側)から至近距離で本堂遺跡を見てみましょう👟↓

因みに写真の本堂建物群跡については、遺跡を埋め戻して保存した上に忠実に復元されたものです。

画面中央の茶色いレンガ敷き(塼敷き)の部分が本堂中心建物で、3×3間の仏堂と考えられています。中央には仏様を安置した須弥壇があったようです。画面には収まっていませんが、北・東・南の三方は回廊状に建っていた建物の礎石が並んでいます。本堂の西側には建物はなく、西側背後の百塔に続く階段があります。(画面下に写っているのがそれです。)現地案内板によると、階段は1段の高さが60cmもあり、須弥壇の真後ろにあることから、この階段は人間が使用するものではなく、仏様が須弥壇と百塔を行き来するためのものだったと考えられているそうですよ💡仏様の目線で、本堂裏の階段から百塔エリアを眺めた図がこちら✨↓

因みに百塔跡はレプリカではなく本物の遺構です。

さて、それではいよいよ、この遺跡の最大のミステリーにして魅惑の百塔について見ていきたいと思います❣️写真でもわかるように、塔の石積みは崩れてしまっていて形が残っていないんですが、百塔域の北東端の2基が復元されていますので見てみましょう。まずは、解説板を引用しますね。↓

        百塔の復元
 現在の百塔は全てその上部が崩れ落ちています。百塔域北東端の2基はそれを復元したものです。
 百塔の本来の姿を復元するために、根石(百塔の一番下の石)の位置を確認し、その周辺に崩れて散らばったと思われる石の範囲を特定しました。つぎに、その周囲の石を根石の上に積み、高さや形を想定して復元図を作成し、それを基に2基の石塔を復元しました。
 石塔の上には、石製の宝珠などが乗せられていたと考えられます。しかし、百塔域の北半分からは宝珠などではなく白色の石が出土しています。この2つが同じ意味または別の意味を持って使われたかはわかりませんが、2基の石塔はそれぞれを1基ずつ復元しました。

そして、宝珠が乗せられていたバージョンの復元石塔の写真がこちら↓

白い石バージョンの石塔写真がこちら↓ (因みに別の解説板によると、白い石は石塔内部に埋め込まれていたもよう。)

写真では大きさが分かりにくいですが、一辺がおよそ2.4mの正四角錐の大きな石積みの石塔です。私はここ以外ではこんな石塔は見たことないです。とても珍しい遺構ですよね❗️そして、白色の石は何を意味するのか。。謎は深まるばかりですが、次に、百塔についての概要を説明した案内板を引用します。↓

       百塔=100基の石塔
 本堂建物の背後には、石垣と石塁に囲まれた千坪の斜面(55×60m)が広がり、百塔が整然と並んでいます。百塔はおよそ一辺2.4mの正方形に石を積み上げた石の塔で、形を出していない部分もありますが10×10列の100基であることがわかりました。
 崩れた石とともに出土した宝珠などの石製品から、相輪塔を乗せた石塔であったと考えられています。「石塔が百基」「本堂の背後に位置する」ということから、これらが金子塔碑文に記された「池辺寺の根本御座所は百塔」を示すものであり、ここが池辺寺跡だと判断しました。
 百塔がどんな性格のものかは、現在も解明できていません。百塔の配置から「曼荼羅や菩薩を表現したもの」「平安時代の仏事にある百塔礼拝や百塔巡礼の場」などの説があります。各石塔や石塁の手前からは灯明油の付いた土師器が多く出土していますので、夜間に灯りを並べていたことはわかっていますが、それが通常であったかはわかりません。
 本堂の中央には仏様を祀る須弥壇が設置され、建物背後には階段や庇が設けられています。須弥壇の背後を開け放つことで本堂の仏様と背後の石塔が一体のものとなり、金子塔碑文に記す「万行成就」のご利益を生み出したのでしょう。

夜の本堂に灯された明かりで浮かび上がった仏像と、その背後に広がる灯明皿に照らされた百塔の光景は、この世のものとは思えないほど美しかったことでしょうね✨

さて、綺麗だね〜、不思議だね〜、で終われないのが私です。百塔が何を表したものか気になります。曼荼羅説や百塔巡礼説も魅力的ですが、私はやはり、金子塔碑文に書かれた「仏像や百塔は、草木が姿をかえたもので、造形の□を知らない(ほどすばらしいものだった)。」の文言が気にかかりました。そして、この古代池辺寺が建立された800年代前半というのは、最澄と空海が唐から帰国し、新しい仏教が普及し始めた頃ですよね💡そこでなんとか百塔の謎に迫れないかと、昔買った立川武蔵著『最澄と空海』を読み直してみたところ、ある説を思いつきましたので聞いて下さい❣️

まず前提として、江戸時代に写された『池辺寺縁起絵巻』によると、奈良時代710年に池辺寺が創建された当初は池辺寺は南都六宗のうちの一つ・法相宗のお寺で、912年に天台宗に改宗したとされています。ここ古代池辺寺は、800年代前半に建て直されたと考えると、当時最澄が帰国して天台宗が広がりつつあったことから、私はこの時点で天台宗のお寺として建て直したんじゃないかと想像しました。

以下、『最澄と空海』の中のキーワードを挙げて百塔が意味するものの仮説を述べたいと思います!(付け焼き刃ですが💧)

最澄が唱えたものには「草木成仏」という概念があり、草木にも人間同様に仏性があり、空という原理によって成仏するといったものらしいです。これが碑文の「百塔は草木が姿を変えたもの」の根底にあるのではないかと想像しました。

そして、10×10の石塔は、天台の世界観である「一念三千」を表現しているのではないかと閃きました💡意味は一瞬の中に全てを見るといったものらしいです。
以下、「一念三千」の考え方について書かれた部分を本書から引用しますが、それぞれの言葉の宗教的な意味は難しくて正解に理解できてないので、言葉の説明は省きます。(ていうか、できません💦)出てくる数に注目して頂ければ幸いです。

一念の中身とされる「三千」とは、十界(じっかい、じゅうかい)、十如是(じゅうにょぜ)、三種世間(さんしゅせけん)の組み合わせによる数字である。

立川武蔵『最澄と空海』p.119

※十界:地獄界、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、
人間界、天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界

※十如是:如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等

※三種世間:五陰世間、国土世間、衆生世間

十界は人間がおもむく可能性のある世界を意味し、十如是はその十界における存在様式を示すものであった。(中略)十界のそれぞれに如是が備わっているので百如是となり、十界のそれぞれが他の界を含むので千如是となる。そして、「三種世間」(五陰世間、国土世間、衆生世間)それぞれに千如是が備わるので「三千」となる、というのが天台教学における世界観である。

立川武蔵『最澄と空海』p.133-134

※十界のそれぞれが他の界を含むとは、界には相互性がある(人が地獄に落ちたり、仏になったりする)ことを表し、天台において「十界互具」と呼ばれる。

つまりこういうことかなと↓

いやいや、これじゃ千にはなっても三千にはならないじゃん!と思いますよね?三種世間を表す石塔は百塔域外のここにあります!↓
(注:私の勝手な説ですよ)

       3つ並んだ石積み
石垣SW01の手前に、3基の石積みが並んでいます。一辺2.1mの正方形で、少なくとも垂直に3段は石を積んでいますので、百塔とは構造が異なり、おそらく性格も異なるのでしょう。

現地案内板より

これで1000×3で三千!こんな説はいかがでしょうか?ちょっと強引すぎますかね😅皆さまももし、いい説を思いつかれたら是非教えてくださ〜い!
まぁ、謎は謎のままの方が遺跡としてはミステリアスで魅力的なのかもしれませんけどね🔮

最後に、遺跡の一番高い場所、西の端から池辺寺跡全体を眺めて記事を終わりたいと思います。↓

       百塚からの景観
ここから見下ろした方向が真東です。多くの寺は南向きに造られますが、ここは地形に合わせて東向きです。本堂に朝日が差し込む風景は美しかったことでしょう。

現地案内板より

今回は長くなったのであとがきは無しで失礼します🙇‍♀️皆さまそれぞれに古代のロマンと謎の余韻を楽しんで頂けましたら幸いです❣️

見学用スロープに落ちていたドングリ

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献•Webサイト】
熊本市ホームページ
熊本市「国史跡 池辺寺跡」パンフレット
熊本市「史跡 池辺寺跡」パンフレット
立川武蔵『最澄と空海』講談社 1998年

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