アイデンティティ形成とマイノリティについて 自分がふつうの人間であることに気付く勇気はありますか

昨今の「わたしはマイノリティ」公表の多さは、これまで声をあげられなかった人たちが、存在感を発揮できる社会になったから、という考察は正しいと思います。
ジェンダーマイノリティとか、病気や障害とか、その人を特徴づけるさまざまなことを、タグを付けるように説明するのがふつうに行われるようになってきました。

ただし、その中のごくわずかに、マイノリティであることを自身のアイデンティティと錯覚している人、さらには、アイデンティティ形成のために、社会からマイノリティを自己へインストールしてしまうひとたちが一定数いると思います。

ひとは赤ん坊として生まれ、家庭の中で特別な存在として大切に育てられたのち、家族の外の他者や社会と出会って発達していく過程で、「自分は特別な存在ではなく、社会に存在するふつうの人間のひとりだったし、これからもそうである」と徐々に気付いていきます。
(誤解してほしくないのは、尊厳がある、ということと特別である、ということはまったく異なることです。)
(ふつうであれ特別であれ、存在自体に尊厳があり、大切にされるべきであるとわたしは考えています。)

SNSの急成長のためか、「何者かである特別な自分」でないと社会に必要ないと感じてしまう若者が増えたのではないでしょうか。
いいね を稼ぐには特別であることが手っ取り早い構造上しかたのないことかもしれません。
その人の影響力が数値化される社会で、摂食障害や過量服薬をはじめとするメンタルヘルスの課題が増えているのも、「存在を認められるために何者かであろうとする」心のはたらきの集合なのではないかと思います。

目標達成型の思考に染まっているのだと思います。
SNSは画期的なツールだけど、それは自分のやっていることが社会や他者にとって偶然価値がある、という状態で、より価値を提供する範囲を広げられるというだけのものなのに、多くのSNSを覗くと、バズるためにウケることをする、が行動の基準になっていますよね、本末転倒といえます。

自分に誠実に生きて、それを認めてくれる社会と調和していくのが健全な生き方だと思うので、躍起になってマイノリティ部分をインストールしなくていいのに、と思います。