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『偶然と想像』の「偶然」が俳優の芝居に火を点ける。

ベルリン映画祭銀熊賞『偶然と想像』年末に観にいってきました!
満員の客席は年齢層高め、上品な老夫婦カップルも多かったんですが、始終笑い声が上がっていていい雰囲気でした。

『偶然と想像』は『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介脚本監督による「偶然」をテーマにした3本の短編オムニバスです。121分間ただただ「刻一刻と変化する人間関係」が描かれている会話劇なんですが、これが意外にも超エキサイティングだったんですよね。もうドキドキしっぱなし。客席からもスクリーンで起きる小さな出来事に一喜一憂する吐息がずっと聞こえてきていました。

とにかく脚本が素晴らしい!人間同士の関係性がコロコロと変わってゆく。その何度も何度も繰り返される関係性の仕切り直しそのものが物語になっている・・・超絶面白かったし、まさに時代の最先端の表現だし、なによりこれを演じるのって難易度高過ぎでしょ!(笑)

…というわけで新年一発目の演技ブログは、ベルリン映画祭でみごと銀熊賞を獲得した『偶然と想像』の俳優たちの演技、そして今作でその効果が具体的にわかりやすかった「濱口メソッド」について解説してゆきたいと思います。

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「偶然」が人物に火を点ける。

昔から脚本の世界では、物語に「偶然」の要素を入れると「安い」とか「ご都合主義だ」とか「レベルが低い」と言われたりします。よくあるじゃないですか。登場人物が唐突に交通事故に遭ったり、敵同士だった2人が偶然親子だったり兄弟だったり、アレってホントにガッカリなんですが・・・この『偶然と想像』にはその基本使ったらダメとされている「偶然」がしれっと何度も、何度も、何度も出てくるんですよ。なんてったって「偶然」はこのオムニバスのテーマですからね(笑)。

ところが『偶然と想像』においてはこの「偶然」が出て来れば出てくるほど、観客はスクリーンに釘付けになってゆきます。・・・それはこの映画の「偶然」が登場人物の心に火を点けるからです。(以下、ネタバレあり)

現実世界に生きる我々と同じように、『偶然と想像』の登場人物たちも社会生活の中で常識的な人間の仮面をかぶって生きています。ところが「偶然」の出来事がそんな彼らの仮面をはずしてゆくんですよ。「偶然」が彼らの心に火を点けて、彼らの本性が解放されてゆく・・・ここがこの映画の最もエキサイティングな部分です。

そしてここからが重要なのですが、その「偶然」の出来事に見舞われた人物を演じてる俳優自身の集中力もアップして、ぐんぐん役の人物そのものになってゆくんです。そう「偶然」は物語上の仕掛けなだけではなく、「濱口メソッド」の仕掛けに点火する着火剤でもあるんです。

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「偶然」が俳優に火を点ける。

『偶然と想像』には3種類の俳優が出てきます。
それは「棒読みで喋る俳優」「感情を込めて喋る俳優」そして「衝動に突き動かされて喋る俳優」です。

よく濱口メソッドについて俳優や演出家と話すと「ああ、俳優に棒読みで喋らせる演出でしょ」みたいに言う人が多いのですが、誤解なんですよね。
実際には情感を込めずに棒読みでセリフを言うのは本読みやリハの時だけで、撮影本番ではもう棒読みは解除されて自由に演じることが許されているんです。
なので俳優たちは本番の相手との新鮮な芝居の中で、役の人物として心に火が点いて(心が動いて)自然と情感のこもったセリフ回しが発生します。「衝動に突き動かされて喋る俳優」・・・この状態が濱口メソッドが意図する芝居です。

なのでもし撮影本番中に役の人物として心に火が点かなかった場合、そのシーンの方その俳優の芝居は棒読みになります。「棒読みで喋る俳優」ですね。
そしてやはり心に火が点かなくて、でも棒読みを回避しようとした俳優は、そのシーンを意図的に情感を込めて演じることになり「感情を込めて喋る俳優」になります。

そんなわけで『偶然と想像』『ドライブ・マイ・カー』にはこの3種類の俳優が同じシーンに混在して存在しています。そしてその芝居に点火する起爆剤として脚本上の随所に仕掛けられているのが「偶然」なのです。

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3種類の演技法。

たとえば『偶然と想像』第1話「魔法(よりもっと不確か)」のタクシーのシーン。2人の女性は一見同じようにガールトークを喋ってるように見えますが、じつはヘアメイクのつぐみは「感情を込めて」喋っていて、モデルの芽衣子は「衝動に突き動かされて」喋っています。
それはつぐみ役の玄理さんは意図的に「恋心を込めて」演じていているから。そして芽衣子役の古川琴音さんはつぐみの話の中のとある「偶然」によって不意に心に火を点けられてしまったからです。

それが次の事務所のシーンでは、芽衣子は半ば「棒読みで」、元カレの和明は「衝動に突き動かされて」喋っているんですね。「偶然」によって心に火を点けられているのが和明の側だからです。
これは第2話・第3話でも同じです。

基本登場人物たちは「棒読み」なのですが、脚本上の「偶然」の仕掛けによって心に火を点けられた側の俳優が「衝動に突き動かされて」喋り始めるんですね。そして火を点けられた俳優はターボがかかって台詞回しだけでなく表情も動作もイキイキと生々しく、魅力的になるのです。

ちなみにこの3種類の演技法を見分けるのは意外と簡単です。それぞれ見え方が全然違うので。
「棒読みで喋る俳優」の芝居はシステマティックに脚本通りで、目の表情がリラックスしています。
「感情を込めて喋る俳優」
の芝居は自分で込めた情感一色で塗りつぶされるのでシーンの最初から最後まで一定で、目の表情は緊張していて大きくは開きません。
そして「衝動に突き動かされて喋る俳優」の芝居は状況や相手の出方の変化によって刻一刻と変化し続けるので予測不可能で、目の表情はリラックスしたり緊張したり多彩です。瞬間的に目がすごく大きく開いたり劇的な変化があったりします。

そして「感情を込めて喋る俳優」は能動的に、「衝動に突き動かされて喋る俳優」は受動的に芝居を進めるのが特長です。 そして「棒読みで喋る俳優」はふと受動的に芝居を進めているように見えたりして、演出上で意図されたエモーショナルさが不意に伝わってしまって観客をドキッとさせます・・・小津ですね。

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「棒読み」によって複雑なエモーションを獲得する。

「棒読み」と言えば小津安二郎監督作品を思い浮かべる方も多いかと思いますが(笑)、小津監督は俳優が感情を込めて演じることを嫌って、俳優たちに棒読みに近い台詞回しを指定する。時にはご自分でセリフを読んで聞かせたりもするような演出方法だったらしいですね。それくらい彼は俳優に脚本の意図通りに演じて欲しかったのです。

実際小津作品は、無言の動作と、心情そのままを語っているわけでないセリフとで人物が隠している複雑な情感を表現しているシーンが多いです。それを俳優にセリフの字面通りの単純な解釈で情感を込めて演じられたのでは脚本から逸脱してしまって困る。そうなるくらいなら笠智衆のように棒読みで淡々と喋ってくれた方が、脚本の意図通りの複雑な心情が表現できるわけです。

濱口竜介監督のいわゆる「濱口メソッド」も同じところから来ている気がします。小津監督は棒読みによって複雑な情感が流れる芝居を目指していましたが、濱口監督はさらにその先を目指しているような気がします。

「偶然」によって人の心はどう動いてゆくか?についての壮大で緻密なシミュレーションがすでに脚本段階で完了していて、さらに撮影時に俳優たちの心に火を点けることよって思わぬディテールを得てそのシーンがピカピカと光り輝く・・・『偶然と想像』や『ドライブ・マイ・カー』では起きているのはそういうことな気がするのです。

大女優イザベル・ユペールは濱口監督についてこう評しました。

【濱口監督は映画言語の根本的な部分を把握しています。つまり「人が言葉で表現すること」と「沈黙」の間になにが起きるのかを表現することができる監督なのです。】

・・・ああまさしく。これってまさに濱口作品であり、小津作品ですよね。

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2022年一発目の演技ブログ「でびノート☆彡」、長文を最後までお付き合いくださってありがとうございます。今年も俳優の役に立つ記事を書いてゆけたらと思います。

しかし正直『偶然と想像』がベルリン映画祭で銀熊賞を獲ったことには勇気をもらいました。「人の心の動き」をしっかりと描くことが世界への切符になるのだなあと。そう、人の心の動きは世界共通ですからね。

そして『偶然と想像』は短編集ですが・・・よく考えたら『ドライブ・マイ・カー』だって村上春樹の短編小説の幾つかを複雑に組み合わせた短編集なんですよね。短編映画の新しい可能性についても考えさせられます。
いやあ、濱口監督の次回作がどんなものになるのか、興味津々です。

小林でび <でびノート☆彡>


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