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世界の見え方が変わると、人は行動が変わるのだ!『不適切にもほどがある!』

クドカン最新作『不適切にもほどがある!』
なんのかんの言いながら、最終回まで楽しく観ました!
 
第1話はミュージカルシーンがちょっと説教臭かったので、
わ、これ1980年代の人達が悔い改めたり、2020年代の人達が悔い改めたりする物語になっていったらイヤだなあ! と思ったりしてたんですが。
『三体』冒頭の文革のシーンみたいに三角帽子をかぶせられて「自己批判せよ!」にはならずにw、ほんわかした最終回を迎えてホッとしました。
 
だって1980年代に生きる人にとっての感じ方や価値観は、2020年代に生きる人にとっての感じ方や価値観とは違ってあたりまえなわけだし。それをどっちが正しい!とか間違ってる!とか言えるはずが無いのだから。
結果、小川先生はじめ登場人物たちはどちらのモノの見方に寄るでなく「1980年代と2020年代両方を生きる人」になっていった感じがホッとしました。 そうだよね、そうなるものだよね。
 
いや~「人格改造シーン」が無くてよかったw。

演技の話をしましょう。

『不適切にもほどがある!』は人物の「意識の変化」が多く描かれています・・・その変化の演技が本当に素晴らしかった。

この人物の「意識の変化」って、20世紀の映画・ドラマではよく人物の「性格の変化」として演じられてきたんですよ。
 
よく悪役が改心して仲間になったりする展開とかあったじゃないですかw。あれってその悪役が仲間になった後に悪いことしなくなっちゃって、キャラの魅力が無くなっちゃうことよく無かったですか?ヤムチャやジャイアンみたいにw。
 
『北斗の拳』の悪役連中もそうで。みんなケンシロウに倒されて死ぬ前になぜか性格が変わっちゃうw。改心して澄んだ目になっちゃったりw、じつはもともと良い人だったんだ!みたいな描き方したりして・・・いやいや、もともと良い人は何百人も人を殺したりしないから!っていうw。
 
現実世界では、人ってなかなか性格は変わらないですよ。長い付き合いの友達とかを見てると分かりますよね。「あの人は丸くなった」と言うときもあるけど、それは行動が変わっただけで、じつは性格は変わってなかったりするのです。

「性格はそのままなのに行動が変わってゆく」という演技。

で、『不適切にもほどがある!』でも人物の行動が変化します。
小川先生(阿部サダヲ)はケツバットをしなくなるし、向井サカエ(吉田羊)は相手の人格否定をしなくなる。ムッチ先輩はバイクを捨てて大江千里になるw。
 
でもそれらは「性格の変化」として演じられていないのです。性格は以前のまま。ただ色々あって、「世界の見え方が変わったので、行動が変わった」という風に描写されているんです、脚本的にも演技的にも。
 
小川先生があんなに喜々としてやっていたケツバットを最終回でやらなくなったのは、性格が変わったからでも、2020年代式のコンプライアンスに感化されたからでもなく、いろいろあって、いままで「意味あるぜ!」と感じていたケツバット(連帯責任という体罰)が急に「意味ないな。もっと他にやるべきことあるな」と感じられるようになったから、それだけ。
それは小川先生から見える「世界の意味」が変わったからです。
 
これまで長いこと多くの劇作品に於いて『人物の「行動」は「性格」で決まる』と定義されていたんですが、それが『人物の「行動」は「世界の見え方」で決まる』という風に定義が書き換わりつつあるなあと最近感じます。

人物の「行動」は「世界の見え方」で決まる。

これって極めて現代的な人物の把握のしかた、人物の演じかただと思うのです。

キャラは変わらない、が、行動は変わる。

しかし古田新太さんと池田成志さん、輝いてましたねえ(笑)
ふたりともポンコツの役でしたがw、30年前にはこの人物達イケイケだったんだろうなー!ってのがチラチラ見え隠れしてるのが、本当に魅力的だったんですよねー。
 
そう、老いてもハチャメチャな性格は変わらない。ふるまいが変わるだけ。これをおふたりが縦横無尽に演じていてめっちゃ面白かった。
人は老いても老成しない、いつまでもバカ(笑)。このへんはクドカンの愛すべき人間観なんでしょうねー。
 
古田新太演じる犬島ゆずるは、かつてはバブルに踊るハチャメチャな黒服・自称「覇者」だったけど、バブルがはじけて失業して「世界の見え方」が変わり、家業の仕立て屋を継ぐことに。そして震災で妻を失い再び「世界の見え方」が変わり、現在のあの地味~な感じに。

ただ性格は変わってないんですよ。

その証拠に古田新太が演じる老いた犬島は酸素吸入が必要なのに、何かというと立ち上がって踊ったり凄んだり、覇者っぷりを見せようとするんですよね。で倒れるw。普段のふるまいが変わっただけで、根っ子は変わってないんです。
 
そして池田成志が演じる脚本家・江面賢太郎(エモケン)は、これまたバブル時代に大活躍していたメチャクチャな人物なのだけど、エモケンの方はバブルがはじけても人気脚本家としてそこそこ活動してこれたせいで「世界の見え方」を変える機会を逸してしまった。
でも時代はどんどん変化してゆくので、エモケンはどんどん時代からズレて迷走してゆくのだけどw、彼の目に見える世界はまだバブルのままなので、彼自身は「変化」してゆくことができない。
そして面白いのは、彼エモケンはラストまで変わらないんですよね(笑)
 
エモケンは「世界の見え方」が変わってしまうことから逃げているので、行動を変えることができないんです。だって脚本をパソコンで書くことができないんです!紙にペンで書くっていう方法を変えることができない!
でも彼なりに頑張って、ホテルのベッドルームに書きかけの脚本の断片が書いてある無数の手書きの原稿をまき散らして、彼なりに命を懸けて脚本を書いているんだ!っていうエモケンの描写に感動したんですよね。
 
クドカンの「変われない人たち」に対する優しさを感じました。
そして「現実を直視できない男」を演じさせたら天下一品!池田成志さんの健在を感じて超嬉しかったですw。

世界をちょっと引いた目で見る芝居。

1点だけ『不適切にもほどがある!』の演技で残念だったことを上げるならば、それは小川先生の娘さん、純子の演技です。
 
第1話で聖子ちゃんカットで登場した純子は本当に可愛かった!
1980年代当時を知る人間としてはw、ああ!そうでした!そうでした!の連続で、70年代ほど気合の入ってない80年代のスケバンの、バカで&純真でというキュートな演技に心躍りました。
 
ただその純子の演技が途中から変わっちゃうんですよね。髪を切ったあたりから目が変わった、つまり「彼女から見える世界が変わった」んです。
それまでの「目先のことに夢中になるアクティブな人物描写」が、「なにかを達観したような大人しい芝居」に変わってしまったんです・・・それはおそらく純子が死んでしまうという運命が明らかになったからで。
それが役の人物である純子自身が自分の運命を知って「世界の見え方が変わった」のであればよかったのですが・・・これよくあることなんですが・・・純子を演じる俳優さんがそれを知って「作品世界の見え方が変わって」、純子を「死にゆく人」として演じ始めちゃったパターンじゃないかと思うんですよね。
 
達観したような芝居・・・これ、本当に残念なんです。だって死にゆく人だからこそ、イキイキと生きて欲しいじゃないですか。
このドラマのラストに小川先生が寝坊した純子を起こすシーンがありますよね。これを達観した演技で演じるのもひとつの考え方ではあるけれど、ボクは第1話と同じテンションで演じて欲しかった。達観せずに逆に精一杯イキイキと「生」を楽しんでくれたら、きっと僕は逆に泣いてしまっただろうと思います。

いや~賛否両論いろいろあるドラマでしたが、ラストのテロップ含めて、クドカンはまだまだ元気なんだなーと感じて嬉しかったです。
 
そして人物の描き方が、脚本的にも、演技的にも最新に更新されているのがやはり嬉しかった。最新の演技法だからこそ、現代人をリアルに描写できますからね。こういうドラマがもっと増えてくれると嬉しいですね~。
 
小林でび <でびノート>


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