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大怪獣のあとしまつ

 ウルトラマンだかのヒーローがやっつけた後の怪獣を、誰がどうやって片づけるのか。そのコンセプトを聞いた瞬間、期待している自分がいました。

 言われてみれば、確かに。やっつけた後の怪獣がどうなってんのかなんて考えたことなかったです。元の物語──例えばウルトラマンって、ウルトラマンが特定の人間を救うことが大事なので、怪獣を倒した後の世界のことなんて描く必要がないし、むしろあったら邪魔です。だからあまり意識されることがありませんが、でも本当は、怪獣の被害にあった人もいればその家族もいるし、怪獣を片づけたり町を復興したりする人もいるはずなんですよね。

 脚本家とか映画監督とかって、そういう何かが起こっている前後や裏側に目を向けなきゃならない職業だと思うんですよ。だからこの映画の予告を観たとき、「そんな切り口があったか!」と単純に驚いたし「やられたー!」と悔しくもなりました。

 この誰にも手をつけられていなかった未開の地を発見し耕したというだけでも勝ちですよ。しかも『亀は意外と速く泳ぐ』の三木聡監督でしょ。これは観るしかないです!

 というわけで大阪ステーションシネマに行ってきました。まあ普通に面白かったです。登場人物一人一人のキャラがちゃんと描き分けられていますし、伏線もきちんと張られています。ドラマの流れに違和感はないし、セリフも面白い。何より、これだけ大掛かりな映画を今の日本で撮れるんだ、ということにはとても驚きました。

 しかし点数をつけるとしたら60点くらいかなぁ〜。切り口で大きなアドバンテージがあるにしては、平凡な点数です。

 その理由はいくつかありますが、まず登場人物のキャラクターの問題です。キャラクターは描き分けられているのに画一的なんですよね。

 この映画の見どころの一つは、首相や大臣たちの会話です。彼らがどんな会話をし、どんな決定をおこなうかによって物語が大きく動きます。彼らの中には、怪獣の死骸をゴミとして処分しようとする大臣もいれば、人類の資産として保存しようと言う大臣もいるし、見世物にしてインバウンドで稼ごうと言う大臣もいます。でも誰も責任を取りたくはありません。何か問題が発生すると責任のなすりつけあいが始まります。

 おそらく今の日本政府のパロディがやりたかったと思うんですよね。福島第一原発事故や新型コロナウイルスの対応を思わせる描写があったので。今の日本の大臣たちの汚さとか浅ましさとか頭の悪さとかを、コメディとして描くことは、かなり意識されているはずです。

 ところがその大臣たちが雑に作られているんですよ。多少の人間関係は描かれていますが、思想とか信念とか信条とかは、そもそも考えられていないように見えます。この人はちょっとエロめの例えをする、この人は何かと反対しがち、この人は裏で根回しをする、みたいな反応の仕方が使い分けられているだけ。例えば環境大臣を他の大臣の中の誰かと入れ替えても成立すると思います。

 ストーリーを左右するようなキャラは、脇役と言えど、各々の人生に基づいてキャラクターが出来上がっていなくてはなりません。親がどういう人で、どんな友だちがいて、どんな幼少期を過ごして、若い時には何をしてて、何を考え、何を好み、苦手なことは何か、どんな思いで政治家になり、どういう経緯で大臣になったのか……といった人生があって、その上でキャラクターを造形すべきです。

 また、残念だったのはラストです。思いっきりネタばらししちゃいますけど、このドラマのテーマで最後、ウルトラマンが片づけちゃったらダメです。ウルトラマンが怪獣を倒して地球を救ってくれた。だから次は人間が怪獣の死体を片づけるターンだ、さてどうする?っていう映画じゃないですか。なのにウルトラマンが解決しちゃったら、何の教訓もありません。

 あくまで人間が解決しないと。いや、解決できなくても良いから、最後まで人間がジタバタしないとダメでしょ。

 そしてもう一つ。僕はこれ、そもそも構成をミスってるなーって思っています。先ほど、この映画の見どころの一つは首相や大臣たちの会話だと書きましたが、本来描きたいのはそこではないはず。主人公・アラタとヒロイン・ユキノの物語ですよね。なのに映画館を出たら、ほとんど大臣たちの印象しか残ってないんですよ。つまり大臣たちのパートの描写が多すぎるんです。

 アラタは現場の最前線で働いているので、そっちメインで描くべきです。しかしユキノは環境大臣の秘書官、ユキノの夫は総理大臣の秘書官という設定があるがために、大臣側のボリュームが増えすぎたんじゃないかと思います。あくまでアラタを主人公として描きたいのであれば、現場vs内閣にフォーカスするべきですね。何が起きるかわからない状況に対処しなければならない内閣のワチャワチャを描くなら、アラタはいらないです。

《補足》
 この映画がすごく叩かれていると聞いたので、ちょっとだけ他の人のレビューを読みました。で、思ったことを少し補足します。

 まず今、日本で映画を、それもお金のかかる映画を作ろうと思ったら、明確な政治批判とかできないんですよ。メディアがひよってしまって、制作費も出ないし宣伝もできません。だからあえて「ただのキャラクターですよ」ということにした上で、コメディにしたんだと思います。

 で、国防大臣が何かとエロめの例えをすることに関しては、エロじゃないけど同じように発言が下品な人いますよね。元総理で。まぁ特定の誰かでなくても、今の政治家はおしなべてこのくらい下品で知性がないということを、ストレートに表現すると映画が作れないから遠回しに批判したものと僕は受け取っています。

 僕が言いたいのは今の政治家の平均値でキャラクターを作るにしても、ドラマの展開を大きく左右するような人物の場合は、ちゃんとバックストーリーを作らなきゃならないということです。

 ただし「あれ? ひとつだけ種類の違うキノコが……」というのはやりすぎでしたね。あまりにも品性がなさすぎです。

 それともう一つ、今の日本で大っぴらに批判できないものがあって、それは放射能です。政治批判と同様に、制作費の調達が難しくなりますし、少なくともテレビでは宣伝ができなくなります。

 だからこの映画では最初に「怪獣から放射能は検出されない」という前振りをおこなった上で菌糸が発見され、怪獣の腐敗が進むと部分的に膨張が始まり、その膨張が破裂するとひどい臭いを放つという設定にしてましたね。

 あの菌糸とか臭いが放射能の暗喩になっていると僕は受けとりました。中国だか韓国だかが「臭いが我が国に達したら抗議する」と表明するのは「放射能が我が国に達したら」と置き換えることができるし、怪獣を凍らせようとして失敗するのは凍土壁ですよね。ダムを爆破して水流で怪獣を海に沈めようとするのは汚染水の海洋放出のことで、最後どうしようもなくなって光(ウルトラマン的なもの)が怪獣を宇宙に運び出すのも、核廃棄物に解決策はないということを示していると捉えることができます。

 つまり『大怪獣のあとしまつ』とは『核のあとしまつ』なんですよ。知らんけど。

 ちなみに余談ですが、「ゲロかウンコか」は知性のない政治家がポロッとしてしまった失言を、知性のないメディアが、そこは絶対に論点ではないのにそこだけを切り取って追及するさまを批判的に描いたものだと思います。

監督 三木聡
脚本 三木聡
エグゼクティブプロデューサー 吉田繁暁、木村光仁
企画・プロデュース 須藤泰司、古久保宏子
撮影 高田陽幸
照明 加瀬拓郎
録音 高野泰雄
美術 磯見俊裕
装飾 大庭信正
音響効果 柴崎憲治
編集 富永孝
音楽 上野耕路

帯刀アラタ 山田涼介
雨音ユキノ 土屋太鳳
雨音正彦 濱田岳
敷島征一郎 眞島秀和
蓮佛紗百合(環境大臣)ふせえり
杉原公人(官房長官)六角精児
竹中学(文部科学大臣)矢柴俊博
川西紫 有薗芳記
椚山猫 SUMIRE
道尾創(国土交通大臣)笠兼三
甘栗ゆう子(厚生労働大臣)MEGUMI
五百蔵睦道(国防大臣)岩松了
国中島隼 田中要次
ユキノの母親 銀粉蝶
中垣内渡(外務大臣)嶋田久作
財前二郎(財務大臣)笹野高史
真砂千 菊地凛子
サヨコ 二階堂ふみ
武庫川電気 染谷将太
八見雲登 松重豊
ブルース(青島涼)オダギリジョー
西大立目完(内閣総理大臣)西田敏行


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