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「自然に還るマインドフルネス」ーマインドルネス3つのステップ③

マインドフルネスについて、やさしくまとめたKindle本ができました。今日ご紹介するのは第3部、最終日です。

この本は、仏教的なマインドフルネスの基礎である「戒・定・慧」になぞらえて、マインドフルネス3つのステップというテーマで、三冊のシリーズになっています。

前回から3回に分けて一冊づつ、こちらのnoteにて、無料で一部を公開していきます。一人でも多くの方に読んでいただき、共感していただけると嬉しいです。ぜひ、気になる方は一度ご覧ください。そして続きが読みたくなったら、お手に取ってもらえると幸いです。

それでは本日は、第1部第2部に続いて、第3部のご紹介です。

*Kindle Unlimited(キンドル・アンリミテッド)では無料で読めます!


はじめに

本書は一部・二部でご紹介してきた通り、シーラ(戒)、サマディ(定)、パンニャ(慧)になぞらえて三部構成となっています。この戒・定・慧の三つは、マインドフルネスを実践するために、ブッタが提案した昔ながらの方法です。

第一部で紹介した「戒」は、ルールを守るという意味ですが、まず最初にわたしたちに必要なルールはたった一つだけでした。それは「自分をそっとしておく」ことです。それはただ何もしない時間をつくるというシンプルなものでした。仏教では、蓮の花は智慧の象徴であり、わたしたちの意識は蓮の花が咲くための泥水として例えられます。ですが普段のわたしたちは生きることに忙しく、せわしく泥水をかき混ぜています。そこには花が育つ基盤となるような落ち着いた土がなく、目の前はいつも混ざった泥水で濁っています。

そこでまず「自分をそっとしておく」ことで、泥を沈めていきます。これが「戒」に当たる部分です。そしてそっとしておくと、水中に散らばっていた泥は下に沈澱し、濁っていた水は透明になります。これが二番目の「定」に当たる部分です。こうして泥が沈むことで安定した土が整い、花を育てることができます。これが最後の「慧」に当たる部分です。

とはいえ一気に泥が沈んで、一気に目の前が晴れるということはなかなかありません。泥がだんだん沈むにしたがって、少しずつ透明度が増していくようなものです。本書では泥が沈むにつれて見えてくる世界を一緒に見ていきましょう。


第一章:呼吸する意識、呼吸する世界。

1)呼吸する意識に気づく

仏教哲学において、わたしたちは呼吸をするように、眼耳鼻舌身意の六つのプラットフォームから世界を吸い込み、その印象を再び吐き出していると考えられています。しかし、意識の呼吸は瞬時に五蘊でプロセスされ、自動運転されているため、普段の私たちは意識が呼吸していることに気づいていないとされています。

だとすると私たちが普段感じている世界というのは、本来的には「ある」のが当たり前ではなく、私たちの意識が世界を映し出しているということになります。仏教哲学を理解するには、このような視点から、意識が呼吸していることに気づかないからこそ、世界が「ある」と感じてしまうという解釈が必要です。

この視点は、仏教に限らず、仏教以前のインド思想に置いて古来から「世界は意識の連続でできている」と考えられてきました。しかし、普段の生活では自分の意識のはたらきが世界を作っているという自覚がないため、まるで世界に翻弄されているかのように感じてしまいます。このような状況下で生きていると、自分は転がる石ころのように無力で、ひとりぼっちであるかのような感覚に陥ってしまいます。そして、このような感覚を抱えながら生きていると、不安や心配事に苛まれ、小さな自分をギュッと握りしめるしかないと感じてしまうこともあるでしょう。

ところが本来のわたしたちは、隅っこでうずくまる小さな石ころではなく、この大きな宇宙全体を動かしている巨人であるとしたらどうでしょう。目に見えない微生物から、会ったことのないどこかの星の宇宙人まで、すべての生き物の意識が呼吸し、吐き出された息吹が混ざり合うことで、宇宙全体が稼働しているのだと考えてみてください。自分自身の意識が呼吸していることへ気づくとで、本当はひとりぼっちでないということ、宇宙全体が丸ごと自分の姿であることに気づくことができます。

そして、自分自身の「意識の呼吸」へ気づいていくために、マインドフルネス瞑想を実践します。それにより自分が世界を動かしているという自覚を持ち、世界に対する理解を深めることができます。仏教的なマインドフルネスは、ただ今ここに意識を集中することで、心が穏やかになるだけでなく、自分の思考や感情に責任を持つことを大切にしています。こうして現実に対してそのような視点を持つことで、世界に翻弄されて、自分の思考や感情に一喜一憂することなく受け止めることができるようになっていきます。
仏教瞑想におけるマインドフルネスは、自分自身や世界に対する新たな視点を深めていくための大切なツールです。自分が世界を突き動かしていることを意識するだけでも、自己を信頼し、自分自身と他者に対して優しく接することができるようになるかもしれません。また、マインドフルネスを通じて宇宙の神秘や、自然の中での自分自身の存在を再発見することができ、生きる意味や目的を見つけることができるかもしれません。

そこで、自分自身の「意識の呼吸」に気づいていくためにも、やはりまずは自分を整えることが大切です。自分を整え、余裕を作ることで、おのずと自然への帰り道が見えてきます。泥水のように混ざってごちゃごちゃしていては、意識の呼吸を観察することはできません。泥が沈澱し、水が透明になるように、まずはそっとしておいて、静かになるのを待ちます。ですが、静かになったらそこで終わりではありません。ここからが自然な自分、本来の自分に帰っていく旅路の始まりです。内に静けさが訪れると、意識が呼吸している様子が見え始めます。自分が何を取り込んで、何を吐き出しているのか、世界を紡ぎ出すプロセスが露わに見えてくるのです。


2)呼吸する世界に気づく

「内観」という言葉を最近ではよく聞くようになりましたが、「自分との対話」という意味で使われていることが多いように思われます。しかし、本来の仏教瞑想における内観とは、自分と対話してあれこれ考えることではなく、私たちの意識がどのように泥水をかき混ぜ、どのような泥を取り込み、どのような泥を吐き出しているか、意識が呼吸をしている様子を精密に観察することです。

こうして私たちは、毎日、毎時、毎瞬、何を取り込んでいるのか、何を吐き出しているのかを観察していくと、宇宙全体と私たち自身が常に混ざり合っている様子がうかがえるようになってきます。その関係性を理解すると、自然に世界に対して親しみが湧き、優しい気持ちが生まれます。それが慈しみの心です。

瞑想に興味がある方は、慈悲喜捨という仏教語を聞いたことがあるかもしれません。この慈悲喜捨をパーリ語ではブラフマ・ヴィハラと呼びます。ブラフマは第一部でも何度か出てきたように、「純粋な」や「原初の」という意味があります。そしてヴィハラには吐き出す、還元するという意味があります。なので、ブラフマ・ヴィハラには「吐き出されるものの純度」という意味があります。

ヴィハラはパーリー経典の中で、僧院を意味する言葉として何度も登場します。僧院をヴィハラと呼ぶのは、仏教だけの独特の言い回しです。これは私の個人的な憶測ですが、僧侶にとって自分という現象が吐き出される中心となる場所が僧院だったから、吐き出されるものの純度を上げていく場所として、そう呼ばれていたのではないかと思います。以来、私にとっても、生活の場である家やライフスタイルはヴィハラそのものなんだと思うようになりました。

そしてヴィハラの反対語はアハラという言葉です。アハラは食べる、吸い込む、摂取するという意味です。仏教哲学では、呼吸と同じように私たちは常に世界を吸い込んで、また吐き出して混ざり合っているとされています。呼吸は訓練をしなくても意識を向けるだけですぐに認知でき、止めたり、スピードを変えることができます。しかし、通常の意識は自動運転(しかも高速)なので、意識のアハラとヴィハラをコントロールすることは簡単ではありません。そこで、アハラとヴィハラを意識的に整えることで、アハラの純度も上げていくのがブラフマ・ヴィハラ(慈悲喜捨)です。


第二章:自分を整えると、慈悲は自然に生まれる

1)慈悲も、するものでなく、起こるもの

仏教においてマインドフルネスを実践する際には、この慈悲喜捨が欠かせません。それは単にマインドフルネスを活用する上での倫理観を育てるためだけでなく、意識の呼吸を理解するために不可欠な要素でもあるからです。

日本は大乗仏教の文化圏であり、仏教というと慈悲というイメージがもともとあります。そのため、「思いやりや優しさ」といった意味で慈悲を捉える人も多いかもしれません。また、日本では自分のことを後回しにして周りのことを考える傾向があるのは、仏教や儒教の影響を受けているためだと考えられます。しかし、ブッダオリジナルの慈悲とは、単に周りに対して慈しみや思いやりを持つことを教えるものではありません。本来の慈悲とは、自分自身が小さな石ころのようになってしまっている状態から解放され、自然な状態へと帰っていくためのものです。したがって、慈悲喜捨は自己犠牲を極めるためのものではなく、わたしたちが小さな石ころ状態から解放され、宇宙全体へと帰還していくプロセスを描いたものなのです。

私たちは普段、不安や心配事に苛まれ、小さな「自分」や「自分のもの」をギュッと握りしめています。その握りしめている手を少しずつ緩めて、最後には手放しでいられるところまで開いていくことが、慈悲喜捨の4つのプロセスです。したがって、ブッダ的な慈悲とは、思いやりや優しさを大義名分に「我慢してでも利他すればいい」というものではありません。無理やり我慢して行う利他だと、本来の慈悲から離れてしまい、手放しのプロセスを邪魔してしまいます。それでは、私たちは辛いだけで、解放感などありません。慈悲は、瞑想や内観が必要なものではなく、自然に起こるものであると捉えることができます。そうでない場合、違った思考や感情から生み出されるエネルギーの圧力で本質が歪んでしまい、結局不自然なものになってしまうでしょう。




無料公開はここまでです
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つづきのもくじ

2)優しくなれない自分も自然現象

第三章:自然と共に生きる慈悲喜捨

1)「わたしがしあわせでありますように」の本当の意味

2)慈悲喜捨がもたらす、自然と調和した生き方

3)「自分」を信頼することで、手放しでいられる

第四章:握りしめた石ころの自分を解放する方法

1)六方拝で世界との繋がりを感じる

2)六方拝をやってみよう

おわりに


第一部「わたしに還るマインドフルネス」はこちら↓↓↓

第二部「わたしに安らぐマインドフルネス」はこちら↓↓↓

第三部「自然に還るマインドフルネス」はこちら↓↓↓


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