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カント『純粋理性批判』/量子重力理論/観測問題

  以下が、久保元彦氏最晩年の論考「内的経験」最後の記述である。

「だが本当は、現象形式の探究と、概念にもとづく認識の闡明とが一致する地平に立って、原則を、まずその純然たるすがたにおいて捉えようと努めるのでなければ、カントの思索の精髄を、けっしてかいまみることはできないのだ。」(「内的経験(五)」『カント研究』創文社 1987年 所収 197頁)

  カントの目指した「学としての形而上学」は、「純粋自然科学」(上記久保氏最晩年の論考「内的経験」末尾によればその核は「純粋悟性の原則」)の形而上学的根拠を論証するはずのものであった。だが、カントはその形而上学的根拠への探究の途上で挫折した。その途上こそが、『純粋理性批判』のデッドライン/死線である。必要なのは、その形而上学的根拠それ自体の探究である。それは、かつてない未聞の諸地帯Zones――デッドライン/死線の横断になるだろう。

附論 量子重力理論/観測問題/量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性

 「学としての形而上学」は、「純粋自然科学」の形而上学的根拠を論証するはずのものであったが、この「純粋自然科学」は現在であればその完全な構築が物理学全体の究極目的である量子重力理論ということになるだろう。量子重力理論の構築は、一般相対論と量子論との統一として語られることが多いが、より踏み込んで言えば、「重力」という力の場/重力場を、量子ゆらぎの効果を含みこんだ離散的な場として解釈する(重力場の量子化)場合に、従来一般相対論にいたるまで(優れてカント的な意味で)連続的な外延量として考えられてきた時-空という次元/場との整合性を破綻なくどのように記述し得るのかという究極の課題を意味している。内包量の経験の成立可能性と時間という純粋直観の接続という問題は、『序論』[注2]でも言及した、位置に代表される時空座標の物理量/確率変数とエネルギー・運動量の確率分布の不確定性関係を経由して重力と時-空の関係性の記述/観測という問題に直結する。この私による内包量の経験すなわち記述/観測可能性への問いは、量子重力理論の構築という究極課題の根底に、純粋自然科学の形而上学的根拠の探究課題としての量子力学の観測問題を不可避的に組み込んでいるのである。なお、量子力学における観測問題は、観測という行為が、それ自身としては現象の本質を記述する言語形式に過ぎないシュレディンガー方程式には記述不可能な/語り得ない<次元/場>を現実に捉えているという究極の謎を指し示している。このアポリア的な問題に関しては、後に「多世界解釈」を巡ってさらに論じる。 (以下「量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」に関する記述は略)


※上記は、現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している Metaphysics: The <I> is in constant oscillation between 0 and 1』「第5章  カント『純粋理性批判』のデッドライン  Ⅱ 内包量のアポリアのもう一つの地帯/Zone――「魂の常住不変性に関するメンデルスゾーンの証明に対する論駁」から諸地帯Zonesへ」の末尾及びそれに対する「附論」の前半である。


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