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絶対に答えが出ない思考実験であるMatrix(仮想世界)からRealityへ


まずはじめに

前回の「輪廻とは無明であり解脱とはその無明を滅することに他ならない」を書いた後で、瞑想の熟考によって受け取ったことを文字起こししてみようと思います。

思考実験について

「思考実験」という言葉自体は、エルンスト・マッハによって初めて用いられたそうです。

「思考実験」とは、読んで字のごとく「思考上で行う実験」のことになります。

現実的に不可能な条件や、倫理的に実行できない条件の実験、あるいは、ある条件を極端化した上で、頭の中の想像で実験を行います。

「仮に○○だったとして」「こういった状況の場合」というように、現実的でない条件や極端な状況が設定されることが多くなります。

これにより、現実では不可能な事象や、抽象的でわかりにくい問題に対しても、考えやすくなるという利点があります。

考えれば考えるほどに答えが出ない?

たとえば、哲学や倫理の分野に有名な「思考実験」が多く存在します。

極端な状況をイメージすることで、普段は意識できない抽象的な倫理観や哲学観などが浮き彫りになることから「思考実験」が用いられます。

考えれば考えるほど、思考の迷路をさまよってしまうのが、哲学や倫理の思考実験の面白いところになります。

「思考実験」の中で「命」の価値観を考え直す有名な「トロッコ問題」があります。

「トロッコ問題」とは

「トロッコ問題」

暴走したトロッコが線路を走って来ます。

線路の先には5人の作業員がいますが、避難は間に合いそうにありません。

しかし、あなたはトロッコの進路を線路Bへ切り替えるスイッチを見つけました。

スイッチを切り替えると、トロッコの線路が変わり、5人の作業員は助かりますが、その先の線路Bには1人の作業員がいます。

線路Aの5人の作業員が助かる代わりに、線路Bにいる1人の作業員がトロッコに轢かれてしまいます。

ココで選択です。あなたは、本来無関係だった1人の命を犠牲にして、5人の命を救うために線路を切り替えますか?

それとも、そのまま無関係の1人を巻き込まないために、5人の命を見捨てて線路を切り替えないでいますか?

という「思考実験」となります。

この「思考実験」は、無関係の1人を犠牲にして5人の命を救うか否かという究極の選択が問われています。

たとえば、「線路の先の作業員があなたの友人や家族だったら」などのように条件を少し変えることで、より真剣に考えられるかもしれません。

しかし、この問題には正解というものがありません。「思考実験」の中で「命」の価値観や倫理観について考え直す機会として、グループで討論したりお互いの考え方をシェアするものとなっています。

何らかの行為によって、現実だと信じているこの「思考実験」からは抜け出せない?

シャンカラ師の思想において、「行為」はまったく「解脱」の役には立たない、つまり、限りなく生と死を繰り返す輪廻からは逃れることはできないということだと思います。(以下の引用をご参考ください)

このことから、映画「Matrix」のような仮想現実としての「思考実験」の中で、どのような「行為」が正解で間違った「行為」はこうだというものがない世界に私たちは生活しているという「仮説」が思い浮かんだわけです。

前回の「輪廻とは無明であり解脱とはその無明を滅することに他ならない」で論じたように、どのような行為をしようともその行為とは「貪欲」と「嫌悪」という欠点から生じ、その行為の結果から善行と悪行というカルマも起こるのだが、無智さにむしばまれているならば、再び、同じように、身体と結合することで車輪のように輪廻は廻り続けることになる。

十二節
行為は[ブラフマンの]知識と両立しない。[行為はアートマンに関する]誤った理解をともなっているからである。また[ブラフマンの]知識とは、アートマンは不変であるという理解であると、ここ[ウパニシャッド]で述べられている。

『ウパデーシャ・サーハスリー』1.12

マーヤー(幻力)がどのようにして私たちを騙して、一生懸命に生きながら何らかの選択をし何らかの行為をすることに、「思考実験」というアリ地獄という牢獄に閉じこめられているのか?については、後日に譲るとして

現実であると信じて止まないこの「思考実験」についての問題に限って言えば、この「思考実験」において、あなたは幸せですか?

ということをお考えください。

シャンカラ師が教説する「誤った理解」とは、あなたの「思考実験」のことを指しているのかもしれません。

しかしながら、この“Matrix”となる仮想世界は、ほぼ「苦しみ」という海に沈みながらも、その人々それぞれに対しての異なる多様な「幸せ」という濃淡の酸素があじわえるだけに、これが単なる「思考実験」とは信じがたいことだ(映画の見過ぎじゃない)となるでしょう。

また、このインドを代表するようなシャンカラ師の「思想」を、知能が低く自己顕示欲が高く劣等感が強い人間が教祖となったオーム真理教の事件のように、自分勝手に解釈して、どのような「行為」もマーヤーであるとすることは、それこそ、シャンカラ師が教説する「誤った理解」となることを強調しておきます。

シャンカラ師の思想として、わかりやすいお話しで「ヨーガにおいての診断・原因・健康状態・治療法とは何か?」の中でご紹介しておりますのでご参考ください。

「観るもの」と「観られるもの」との混同については後日にお話しする機会があればと思っています。

ちなみに、この「思考実験」の条件は、「仮に神様が実在しないとしたら」とか「もしも神様の居ない世界に想像して住んだらどうなる?」と言えるのかもしれません。

だからこそ、その条件の下で、「行為」をすることによって、私たちは実証することを試みているわけですが、シャンカラ師の言うように、そんなに「貪欲」にそして「嫌悪」を抱きながら目を真っ赤にして「行為」をする必要は、まったく無いということになります。

最後に

「継続は力なり」という言葉がありますが、『ウパデーシャ・サーハスリー』を買って読んだ当時には、このようにして、理解したかのように(笑)書けるとは思いもよりませんでした。

ちんぷんかんぷんでしたね。

だから、読んでわかる人は凄いなと思いますし、わからない人がいたとしても継続して考える続けるか、できたら、優秀な先生に質疑応答の機会があって熟考していけば、最低、私ぐらいの理解にはたどり着けるので、ぜひ、続けて「思考実験」の外に出て行きましょう!

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