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ジャナカ王に授けた教説「真我を悟る聖者とは?」

まずはじめに

前回に引き続き、ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドのヤージナヴァルキァ師の思想についてご一緒に考えてみたいと思います。

前回に学びましたように真我とは客体化されないので言語にて説明することができません。ヤージナヴァルキァ師の独自思想ではなく他の思想家や哲学または神秘家と同様に「否定の道」のみが「それ(真我)」を表す方法であると考えたので、そのことを中心に引用してみたいと思います。

ネイティ・ネイティ・ブラーフマン

■ジャナカ王に授けた教説

ヴィデハ国ジャナカ王が謁見を受けるために玉座に座っていると、ヤージナヴァルキァ師がやって来ました。「あなたはここに何をなさるためにおいでになったのでしょうか?家畜が欲しいからか、それとも精妙な事物に関する私の質問に答えるためでしょうか?」と尋ねると

「その両方のためです、王様」とヤージナヴァルキァ師が答えたことから始まります。

今回引用するのは以上の状況においてのヤージナヴァルキァ師とジャナカ王の対話による教説が中心になります。

まず、ヤージナヴァルキァ師がジャナカ王に導師方がどのような教えを伝えたのかをお聞かせくださいと尋ね、ジャナカ王が答えるのですが、「絶対者ブラーフマン」とは如何なる存在なのかについて教えられていなかったので、ヤージナヴァルキァ師に教説を請います。

■これではない、これではない

一節
ヴィデハ国ジャナカ王は、玉座から降りてヤージナヴァルキァ師に近づいていくと「あなたを敬い奉ります。ヤージナヴァルキァ師様、どうか私をお導きください」と言ったのです。…..

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4,2,1

ここからウパニ(近づいて)シャッド(座る)ことにて、奥義が語られることになります。

ヤージナヴァルキァ師がジャナカ王に向かって、あなたは、極めて優秀であり、富にも恵まれ、しかもヴェーダ聖典をよく学び、ウパニシャッドの教えを耳にされている。しかし、もしあなたがこの身体から離れる時にはどこに行くとお思いですか?の最終的な答えが以下になります。

四節
(ヤージュナヴァルキァ師がさらに教えた)
「この真我が【これではない、これではない】と言われる真我なのです。この真我は決して把握されないので、把握され得ないものなのです。この真我は決して破壊されないものなので、破壊され得ないものなのです。この真我はとらわれないものなので、無執着なるものなのです。苦しむこともなく、危害に悩むこともありません。ジャナカ王よ、あなたは恐れを知らぬ境地に達したのです」

(ジャナカ王が言った)
「尊きヤージナヴァルキァ師様、あなた様は私たちにその恐れを知らぬ境地を教えてくださった故に、あなた様にもその恐れを知らぬ境地がもたらされますようお祈り致します。あなた様を礼拝致します!ヴィデハ国王もその国民も、あなた様に対して何でもさせていただきます!」

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.2.4

ジャナカ王は、ヤージナヴァルキァ師との対話による教説で感極まっているのが見て取れます。ヨーガとは体験なので、話しとして聞くだけではなく、【これではない、これではない】と真我ではないものをタマネギの皮をむくように否定していく実践をしなければ恐れを知らぬ境地とは成り得ません。そして、ジャナカ王は、ヴィデハの偉大な哲学者王と言われる存在となります。

次々に、ヤージナヴァルキァ師はジャナカ王へ奥義を口伝していきますが、以下は、真我(アートマン)について述べています。

五節
この真我(アートマン)は、絶対者ブラーフマンであります。

また、この真我(アートマン)は、相対的な智慧から成り(ヴィジナーナマヤ)、意思から成り(マノマヤ)、生気から成り(プラーナマヤ)、視覚から成り(チャクシュマヤ)、聴覚から成り(シュロートラマヤ)、地元素から成り(プリティヴィーマヤ)、水元素から成り(アーポマヤ)、風元素から成り(ヴァーユマヤ)、空元素から成り(アーカーシャマヤ)、火元素から成り(テージョマヤ)、非火元素から成り(アテージョマヤ)、情欲から成り(カーママヤ)、憤怒から成り(クローダマヤ)、非憤怒から成り(アクローダマヤ)、法から成り(ダルママヤ)、非法から成り(アダルママヤ)、一切から成り(サルヴァマヤ)、真我(アートマン)は、このように、これだあれだと言われている通りに成るのです。

(ですから、真我の外形たる)人は、行う通りに成り、行為の通りに成るのです。

(例えば)善い行いをするものは善人に成り、悪い行いをするものは悪徳な者に成ります。有徳の行為をする者は高潔な者に成り、邪悪な行為をする者は悪徳な者に成ります。世間では、『人間(プルシャ)は、諸欲(カーマ)から成る』と言われています。つまり、人は、その欲望にしたがって決意(クラトゥ)を定め、決意の通りに行為し、その行為に相応した人間に成るのです。

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.4.5

ヴェーダーンタの思想において、すべての原因は、絶対者ブラーフマンに起因するとしている。そして、最終的な人間として、諸欲の中の欲望に従う決意によって、悪徳な者にも成り、高潔な者にも成り得ると述べられている。

自分がどのような人間に成っているのかは、「ヨーガは体と心を識別し心が霊を自認しながら生活を営む技術」の中で、ヨーガの技術として、どのように気づくのかについて述べているのでご参照ください。

もう少し【これではない、これではない】の教説について、以下に引用してみます。

二十二節
諸器官の中にあっての認識作用である真我は偉大にして不生の存在ですが、心臓内で光り輝いているのです。真我は万物を取り締まる者であり、万物の支配者であり、統治者です。善なる行為で善くも成らず、悪行にて悪くも成らないのです。万物の支配者であり、万生の統治者であり、保護者です。種々の世界に区切りをつける堤です。

ブラーフマナ(バラモン)たちもヴェーダ聖典を学び、犠牲際を行い、布施をし、感覚器官の対象物を静かに楽しむ苦行を通して真我を悟ろうとしています。真我を悟ることでのみ、人は聖者となれるのです。

(真我の)世界を知りたく願うことによってのみ、出家者は真に出家するのです。古の聖者たちが『真我を悟りこの世を知る我らが、子をなして何をか為さん』と言って、子をもうけなかったのもこうした理由からなのです。

そうした彼ら故に、跡継ぎを望まず、富や名声を望まず、乞食の生活を送っていたのです。跡継ぎを望むのは富を望むからであり、富を望むのは名声を望むからであり、これら富と名声を望むのは他ならぬ諸々の欲望から出てきています。

真我は、【これではない。これではない】と述べられているものです。知覚されたことがない故に見ることができず、朽ちたことがない故に不朽であり、何かに属したことがない故に無所属であり、無執着であり、苦しみ悩んだこともありません。

聖者というものは『自分は罪な行為をした』とか『自分は善き行いをした』というような二種類の思いに心惑わされることはありません。それらの思いを超越しているのです。為したことにも為さざることにも煩わされることがないのです。

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.4.22

「古の聖者たちが『真我を悟りこの世を知る我らが、子をなして何をか為さん』と言って、子をもうけなかった」というココを初めて眼にした当時は、二人の子をもうけていたので、これはアカンと思ったものですが…出家者ではない道もあるので皆様ご心配なく(笑

それと、富や名声を確固たるものとしながらもそれらに惑うことなく真我を悟りたいと願うジャナカ王の素晴らしさもこの節に見て取れます。

真我が「種々の世界に区切りをつける堤」となっている、つまり、諸々の欲望に対しての堤防もしくは防波堤となってることがココでのとても大切な教説になっています。

最後に、ヤージナヴァルキァ師は、以下のように語ることでジャナカ王に対する教説を終えます。

二十三節
以上と同じ内容が、次の聖句にも語られています。

『これこそ梵知者(ブラーフマナ)の誉れなり。カルマで増減されはせず。それ故それ(真我)のみ知らるべし。知れば悪に染まるなし』

それ故に、斯くのごとくの真理を知る者は、自らを制し、心静かにして、内省的になり、忍耐強く、三昧の境地にあり、自分の内に真我を観るようになり、万有を真我と観るようになるのです。邪悪さがその者を襲うことがなく、かえってすべての邪悪さを克服するのです。邪悪さがその者を惑わすことがなく、かえってすべての邪悪さを焼き尽くしてしまうのです。その者は、罪がなく、汚れもなく、疑念も持たず、梵知者(ブラーフマナ)となるのです。

王様、以上が絶対者ブラーフマンの世界です。陛下はその世界に到達されたのです。このように、ヤージナヴァルキァ師が語った。

(ジャナカ王が言った)
「私は尊師にヴィデハ王国のすべてを寄進致します。我が身も同時に捧げます。尊師にお仕え致します」

二十四節
斯くのごときの偉大にして不生なる真我は、食物を食するものであり(カルマの結果たる)財物を与えてくださるお方なのです。このように知る者は、財物を受け取るのです。
二十五節

斯くのごときの偉大にして不生なる真我は、不老にして不滅、不死、無畏であり、絶対者ブラーフマンなのです。絶対者ブラーフマンはまことに無畏なのです。このように知る者は無畏なる絶対者ブラーフマンに確実になるのです。

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.4.23-25

■出家しなくても真我を悟れる?

眼や耳などの諸器官によって知覚する認識作用たる真我なのですが、以前にも触れましたように、その真我は「種々の世界に区切りをつける堤」となっています。

したがって、「真我が知覚する世界」と「諸々の欲望に支配されている私たちが知覚する世界」は、まったく異なることが想像できます。きっとそうでしょう。

そこで、【これではない。これではない】という「ネイティ・ネイティ・ブラーフマン」、つまり、これはブラーフマンではない、これはブラーフマンではないと否定して手放していくことができます。

どういうことかと言いますと、「今、私の誤ったこの知覚は神からのものではない」と、心に印象づけることを回避できます。なぜならば、この誤った知覚とは、過去の出来事に対する誤った解釈から起因するものであり、その残存する印象からの知覚と共に行為が生じることになるからです。「カルマで増減されはせず」とはそのことを意味しています。

ヤージナヴァルキァ師は、「万有を真我と観るようになる」と教説していることが本当ならば、私たちの心を翻弄させるような、惑わすような、乱すような世界を知覚する時、「間違った知覚」を「私のもの」としていることで、その知覚のままに万有に反応し、自我からの行為へと生じていることを証明していることになっています。

ココでごく簡単に、『ヨーガ・スートラ』に述べられる内的心理器官(アンタカラーナ)という心の器官を例にして「間違った知覚」を「私のもの」としていることについて説明します。

内的心理器官は、1.チッタ(心素)・2.ブッティ(理智)・3.アハムカーラ(我執)・4.マナス(意思)の四つで構成されています。

1.チッタは過去の状況で印象に残った記憶を保存する記憶袋

2.マナスは外的状況と関わる運動器官や感覚器官からの情報を、または、チッタからの内的情報をブッディへと伝達したり、ブッディからの決断を運動器官や感覚器官へと伝達し操作する馬車の手綱みたいな役割

3.アハムカーラは外的状況やチッタに保存されている記憶(残存印象)や未来を含めた自分の身体や思いや感情などを「私の」や「私のもの」として結びつける役割

4.ブッティはマナスを通して得られる外的または内的な情報を判断し決断する役割

以上の内的心理器官の役割から言えることは、ヤージナヴァルキァ師の教説である「万有を真我と観るようになる」ようになるためには、ブッディが真我と共に観て判断し決断する、ということが最終地点だとすると

今回の【これではない。これではない】ということを実践する為には、アハムカーラという「私の」や「私のもの」とする自我特有の状態を滅却することが課題となります。「私の」や「私のもの」とする自我特有の状態がなぜに危ういのかと言いますと、「所有」することによって「奪われる」という恐れやその恐れに伴う「攻撃」や「過剰な防御」そして「苦しみ」や「迷い」が生じることが避けられません。

また、『真我を悟りこの世を知る者』の特徴としての「無所属であり、無執着であり、苦しみ悩んだことがない」ということや『聖者』の特徴たる「二種類の思いに心惑わされることがない」ことに、少しでも近づくためには、アハムカーラの働きを滅却することが鍵となります。アハムカーラの働きを滅却することによってマナスが欲望によって暴走することが少なくなり、操作がしやすくなります。

もう一度、話しを戻しますと、『私たちの心を翻弄させるような、惑わすような、乱すような世界を知覚する時、「間違った知覚」を「私のもの」としていることで、その知覚のままに万有に反応し、自我からの行為へと生じていること』があるならば、それらを内省して【これではない。これではない】と手放していくことが大切になります。

ここで言うところの【これではない。これではない】というのは、「これは万有を真我と観ていない」ということで、つまり、「間違った知覚」を「私のもの」としていたことを認知してその結びつきを解放し、「私は万有を真我と観る」という決断をすることになります。

このことは、以前に「反応する習慣を変える意志の力」でチャーンドギヤ・ウパニシャッドから引用した「ウドギーター」という『阿吽(オウ)』という同意につながります。というのは、何か不都合な状況に巻き込まれる時にその状況に「AUM(オウ)」と答え、「私は万有を真我と観る」という決断をするということと表現は違えでも同じ意味となっています。

また、この【これではない。これではない】は、キリスト教における「赦し」として同じ意味を表すと言えるかもしれません。例えば、「万有を真我と観る」ならば、絶対者ブラーフマン以外のものは実在しないことを意味し、「赦し」もしくは【これではない。これではない】を与える対象とは、「何も起きていないことごと」もしくは「何もしていないことごと」「何もされていないことごと」として「赦すこと」になるからです。このことは読んだだけでは分からないかもしれませんが、もしも実践する意志があり継続していくならば、何を意味するのかを体験することとなるでしょう。

「間違った知覚」を少し補足しておきますと、その知覚は、今起きていると思っている状況ではなく、過去の記憶に基づいた(ヒモづけられた)印象(イメージ)に起因するものとなっています。例えば、「ヒモと蛇」の喩えにあるように、夜の暗がりを電灯も灯さず歩く時に踏んだヒモを蛇と誤って知覚することや、自分勝手で横暴で暴力的な父親に育てられた女性からすると男性はすべて父親のように見えてしまうようなこともあったりします。

はじめは大きなトラウマ的な「間違った知覚」ではなく、ごく身近で安全な勘違いレベルなものから手がけて、少しずつ段階を経て、手応えを実感しながら進むことをオススメします。

また、この作業は、過去の問題に対して強制的に強引に取り組むものではなく、ごく自然に今現在に訪れる些細な事柄から手をつけていくことで、徐々にゆっくりとその立場や状況において解決できる課題が与えられるのでご安心ください。しかし、熟練していきますとドンと大きなものが訪れますが、その時にはその大きなものでも乗り越えられる準備ができているからこそやってくるので、恐れずに前に進んでください。

最後に

今回は、サクッとではなく、三日間かけて、毎朝の瞑想にてヒントを得ながら書くことができました。もしかしたら、このまま続けていくとより深く掘れるかもしれませんが、そうすると、実践が伴わずに頭でっかちになるだけなのでここで「ネイティ・ネイティ・ブラーフマン」については終えることとします。

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