主体の構え―日曜日のおしゃべり16週目

駄弁っていう語感に飽きたので、今回からおしゃべりってことにしました。

今週は、あるときふっと、「あ、『構え』だ」って、思ったんです。

なにかひらめいた! という感じで、「あ、『構え』だ」って、思ったんです。

エレベーターに乗っているちょっとの間、ベルクソンの『思想と動くもの』の「哲学的直観」のところを読んでいて、エレベーターが停まったところで、その本を鞄に入れて、ブックファーストに向かって歩いている途中で、ふっとそう思ったんでした。

このとき、僕が「ひらめいた」と思ったことって、――先週と同じようなこと言うんですけど――説明しようとすると、けっこう難しいなって思うんです。

説明してみたら、ある程度は伝わるような気はするんです。先週のよりは、まだ伝わる気がする。

でも、説明してみて伝わったら、たぶん僕が「ひらめいた」と思った瞬間に感じていたものと、ちょっと違うことが伝わるんだろうな、とも思うんです。

それで、これからちょっと説明してみるんですけど。

まず「構え」って、誰の何に対する構えかです。

とりあえず、「わたし」の「本」に対する「構え」ということにします。

それで、「構えだ」って思ったっていうのは、「わたしの構えが大事だ」と思った、っていうことです。

わたしは本を読むわけですけど、このときに大事なのが、本の内容の方ではなくってわたしの構えなんだっていうことが一つです。

これはよく言われることだと思うけど、本って読むタイミングによって受け取れるものが、違ってくるわけですよね。子供のときには分からなかったことが、大人になってから読んだら分かった、みたいな。

でも、そういう意味のことでしかなかったら、僕はべつに「ひらめいた」っていうほどの感触には、なってないと思うんです。

僕が「あ!」と思った瞬間に思い浮かべていたことが、三つは明瞭にあるんです。不明瞭には他にも何かあったのかもしれない。

明瞭な三つのうちの一つ目はドゥルーズの哲学史観で、二つ目はベンヤミンのゲーテの『親和力』の評論で、三つ目はプルーストの心情の間歇。

それらを一瞬のうちに思い出して、「本を読んでそこから何かを受け取るっていうのは、ドゥルーズのアレ、ベンヤミンのアレ、プルーストのアレが関係するようなことで、そういうことをつづめて言うとしたら「主体の構え(が大事)」って言うことになるのかな?」っていうようなことを、考えた(?) 直観した(?) んでした。

ちゃんとした批評的エッセイを書くとしたら、こういうことを一つずつ、丁寧に展開して書かないといけないんだろうなぁ。僕には無理だけど。

この日、ブックファーストで買った本は、B・S・ジョンソンの『老人ホーム 一夜の出来事』でした。

これが売っているのを見たときも「あ!」でした。


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