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200年早かった?二宮尊徳「報徳仕法」の真実

今日は二宮尊徳さんの「報徳仕法」は、実際はどうだったか、についてお話しします。

「報徳仕法」とは「分度」と「推譲」を中心思想においた二宮尊徳さんが考案した財政再建計画です。それぞれが「分」に応じた生活を守り、余剰分を拡大再生産に充てて、財政再建を果たすという計画のもの、藩や村の財政的苦境を脱しつつ、当事者である治世者(君主・藩主)、官僚である武士組織(臣)、そして、農民・職人・商人(民)の「君臣民」が一円となって協力して、地域の生産性を向上させることによって財政的危機を脱する方法です。

二宮尊徳の実績は幕府老中水野忠邦から高く評価され、幕臣に抜擢されたことから、二宮尊徳の仕法は諸手を挙げて大賛成され、肯定的に受け入れられていた、と思っていたのだが、実際はそうではなかったのです。

小田原藩主大久保忠真が後ろ楯になった時期があったとはいえ、農民出身であるが故にと、現場では協力してもらえなかったり、嫌がらせされたり、さらには出身の小田原藩を追放。出入り禁止にされた。(資料:「二宮金次郎正伝」より)

明治以降「金次郎伝説」「逸話」が世間に広がり、戦前の修身教科書に掲載されたこともあり、村に苦難あれば村民らが諸手を挙げて「尊徳先生、助けてください」と頼れられる改革者か頼れるコンサルのように慕われていたと思っていたのですが、実際はそうではなかったのです。

(以下に続きます)

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