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128年前、台湾を「M&A」した側である日本が、台湾をどう経営したのか 12月13日 What the Acquire Contributes 企業買収の成否

12月13日 水曜日のランチタイムです。
今日の #ドラッカー365の金言 テーマは
#What_the_Acquire_Contributes (買収する側が貢献するものとは?)
#企業買収の成否

今日のテキストも、昨日に引き続き、『 #マネジメント・フロンティア 』30章  #企業買収成功のための5つの原則  1986年版では313〜317ページ、eラーニング教材『企業買収戦略』と思います。

#企業買収は買収する側が買収される側に何を貢献するかによって成否が定まる
#企業買収にあたっては相乗効果よりも自社による貢献を先に考えてください

 #ドラッカー は常に「いかに自分が貢献できるか」について記しているように思います。 #M &A で買収したら、買収された側が買収した側に貢献せよ、というのが普通と思いますが、そうではない。それではうまくいきません。

そのような買収側の考え方は、今回の侵略戦争で、国際的には承認されていないものの、ロシアが無理やり併合した東部のドネツク州とルハンシク州、それに南部のザポリージャ州とヘルソン州の4つの州の占領地の領民に対して、「ロシアへ貢献せよ」と対ウクライナ戦線の最前線に兵士として送るロシア政府の強権支配的な考え方と同じです。

その結果、泥沼は続き、併合された旧ウクライナ国民がウクライナ軍と戦うという「同志撃ち」のような状況をロシアは招いています。

 かつての日本も(もしかしたら今も?)買収側が組織を支配する、そういう考え方が支配的でした。経営不振による合併した某銀行では、合併した側の管理職ばかりが出世し、合併された側は左遷や冷飯が続くなどでうつ病を発症し休職する職員や自殺者まで頻出するなど社内風土は最悪と聞きます。

例えば、歴史に学ぶとすれば、日本の台湾統治が好例でしょう。

128年前、台湾を「M&A(合併併合)」した側である日本がどう経営したのか?

 わが国は1985年日清戦争勝利で #台湾 を併合した訳ですが、初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた、と言います。

 初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。(中略)この時代の総督に任命された樺山資紀・桂太郎・乃木希典・児玉源太郎・佐久間左馬太・安東貞美・明石元二郎の7名はいずれも現役の大将または中将で、初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。しかもその樺山の時代には台湾副総督という、彼の在任中の一時期のみに置かれた職があり、陸軍中将の高島鞆之助がこれに任じられていた。

そうした中で、第4代総督の児玉の頃から変化があらわれはじめる。長期にわたり総督として腰を据え、体系的な政策を必要に応じて展開、いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針で台湾を包括的に支配することに成果を上げ、統治に安定がもたらされたのである。第6代総督の安東と第7代総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、その任期こそ1年5か月にも満たない短いものだったが、遺言により台湾に墓地が築かれた唯一の総督でもある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾総督府 より

第4代総督・児玉の時代に、腹心として台湾の民政に登用したのが #後藤新平

台湾総督時代(1898-1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。2人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/児玉源太郎 より

 後藤の植民政策は、「生物学」に基づいた「科学的殖民」というもの。それまで武力強権で押さえつけ支配する帝国陸軍方式から台湾旧来の慣行に見合うよう制度工夫して導入し、経営する方式に転換しました。

渡辺利夫著「後藤新平の台湾開発」 https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/rim/pdf/2712.pdf より

 これを受けて、1901年、後藤は台湾農政と民政の発展に、海外留学経験も豊富でアメリカで『BUSIDOU-The Soul of Japan』(『 #武士道 』)を出版した国際感覚と知見が広い同郷の #新渡戸稲造 を台湾総督府技師に起用。

 新渡戸はその手腕を発揮し、民政部殖産課長、殖産局長心得となり、ジャワ島の視察をもとにして「糖業改良意見書」をとりまとめ提出、翌35年、臨時糖務局長を命じられ、サトウキビの栽培改良や製糖工業育成等に努め、台湾産業発展の礎を築きました。その後新渡戸は、明治36(1903)年、台湾総督府臨時糖務局長と兼任で京都帝大教授に。明治39(1906)年には台湾での植民経験をもとに殖民政策の論文により法学博士の学位を受けました。

https://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/yukarinohito/962.html より

後藤の殖民政策は、新渡戸の「協同的殖民経営」に引き継がれます。

森上優子著「新渡戸稲造の殖民思想」より

戦前、日本が行なってきた台湾への「貢献」がどうだったのか。後藤翁の名言に次の一節があります。

「金を残して死ぬのは下。
 事業を残して死ぬのは中。
 人を残して死ぬのが上だ。」

後藤新平

 戦後、1945年10月台湾から日本は撤退します。しかし、そのおよそ40年後の1987年に戒厳令解除に踏み切った蔣経国(総統在職:1978年~1988年)の死後、総統・国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の総統民選を実施、そこで総統に選出されました。李登輝氏はじめ、多くの台湾政財界には、日本時代の民政や教育を懐かしむ優れた人たちが多数輩出されていたと言います。

日本国は、太平洋戦争で敗れはしましたが、優れた台湾人を多数遺したのであれば、それは、台湾へ貢献できた、と言えるかもしれません。

余談:

ここまで、台湾を「M&A」した側である日本がどう経営したかについてみてきましたが、

“日本人のために泣いたり喜んだりするのでは不十分です。日本人とともに泣いたり喜んだりせねばなりません。その人はお客やよそ者であってはなりません。友人でなければならないのです。そして、一家族のようにならねばなりません。最善を尽くして、同情と親切の橋で、人種と国籍の割れ目を渡すよう努めねばなりません。“

新渡戸の異文化を尊重する「協同主義的殖民経営」の考え方は、128年後の我々にも視座を与えてくれているようです。

余談ですが、この観点から、各地で問題となっている外国人の移民との衝突。日本人が外国人に譲歩するばかりの現在の行政のやり方は、日本国民に対して大いなる不満を生んでいます。

日本社会への同化までは求めませんが、入国するのなら、日本社会への理解と共感を持ち、日本社会に馴染む意思と行動が必要と考えます。

午後からもがんばって!きっと良くなります!

#児玉源太郎

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