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「人付き合いが面倒くさい」のは面倒くさい人間が増えたからでもある

ある個人がコミュニティやネットワークに接続されていない状態のことを孤立と呼ぶ。
そして今日、それをどう解決するのかが我々の社会が掲げる命題のひとつとなっている。

さて、解決策を探求するには、原因に見当を付けなければならない。
そこで始まるのが犯人探しだ。

よく言われるのは「高度に資本主義化した社会は冷たい」とか「最近の若者はうじうじし過ぎている」とかそういうものだ。

しかしそれ以前に検討しなければならない問題があった。
進んで孤独になろうとする者たちがいるということだ。


ドロドロした共同体の内情

友達や仲間といった、繋がりを示す観念は肯定的に描かれがちである一方、それらがもたらすのは恩恵だけではない。
そこには序列や、相互監視や、足の引っ張り合いがおびただしく発生している。

群れというシステムには、それの維持のために異端者を爪弾きか晒し者にする機能が組み込まれている。足並みが揃えられなければ、群れは崩壊の危険性を抱えるからだ。

だが、そのように徹底的に人員を同調させる強制力を持ちながらも、群れの中の人間それぞれが、自分こそ出る杭になろうと、この中で一番になろうと躍起になっている。この矛盾は何だろうか。

それは、群れの安全性を保とうとするのは、あくまで自分の安全性のためだからだ。群れが滅びれば自分が死ぬ。
そして所属する群れそのものの安全が担保された先には、群れの中での確固とした立場を作ることで、さらに一段上の安全性を確保しようという目論見がある。

身も蓋もなく言えば、コミュニティというのはそういう場所だ。
そして、いかにその「コミュニティの加害性」を隠蔽するか、その鋭利さをなめらかにするか、というのが「社会人」や「大人」の条件だとされている。

ゼロにするのは不可能だが、穏やかにはできなくもない。

群れに参加せず生きるという選択が可能になった

過去の社会では、群れに所属しない人間の行き場はなかった。
社会的な死が即座に生物的な死だったからだ。

だが社会福祉や制度が整備された今日の日本では、社会的に黙殺されながらも生物的な意味で生きていくことはできる。

生きるためには必ず群れに参加しなければならなかった社会には選択の余地はない。しかし今の日本であれば、群れに所属するかどうかは、程度問題であるものの、ある程度までは自由だ。

だから、つながりたくてもつながれない人とは別に、能動的に人間関係を避ける人たちが発生し始めた。
彼らは、人間関係に発生するコストを払うのを忌避する。

それは、足の引っ張り合いや、相互監視や、序列に嫌気を差すのもそうだろう。
汚い社会に嫌気が差し、そこに適応できない人間が孤立するのも確かだ。

模範的市民を演じる難しさ

だが、綺麗な社会であればいいのかというと、そうでもない。
みんながみんな、「社会人」や「大人」になれれば、少なくとも表面上はまっさらな社会にはできるだろう。

しかし言うまでもないが、「社会人」や「大人」をやるのはひどく難しい

人間関係に嫌気が差すとき、その理由はどちらかというとこっちだろう。
飲み会に顔を出し、癇に障ることを言われても受け流して、自分の加害性を抑え込んで、人の顔色を窺い、つまらないことにも笑い、クズの言っていることでも否定しない。
そして、もちろん自分自身はクズであってはならない。

これが現代社会の規範、あるいはマナー、あるいは同調圧力だ。

社会人や大人の義務を果たせない人間は何と呼ばれるだろうか。子供だ。

人付き合いを避ける人間を子供呼ばわりする向きは少なくない。
みんなが頑張って社会を維持しているのに、お前たちだけは素知らぬ顔を続けるのかと。
まあ、言い分はわからないでもない。

人付き合いの難易度、上がっていませんか

ここで思い出すのは、「自分たちはエアコンのない学校で授業を受けていたのに、最近の子供は根性が足りない」という話だ。
これは「昔の夏よりも今の夏の方が気温が高いんですから、同じ基準で比べるものではないですよ」という現代の寓話だ。

現代人の相手をするのはとても面倒くさい。
「昔だって同じだ」という声もあるだろう。

しかし、以前と今で決定的に違う部分がある。
社会の潔癖化とインターネットだ。

模範的市民を演じるというのは、いかに規範を逸脱しないかだ。
社会が透明化されたことで、逸脱者は厳密な処遇を受けるようになった。
潔癖な社会の眼差しは、わずかな不審も許さない。公園で座っているだけの男性が不審者と疑われ通報されるように。

そんな中での模範的な振る舞い。
「不信感を抱かせない振る舞い」「気分を害さない言動」の基準は厳しさを増す。
身分差のない人間同士での「無礼」がこれほど罪だとされる時代は今が初めてだろう。

これは骨が折れる。だったらいっそ誰もいないところに行きたくなるのも道理だ。

そして、インターネットはめんどくさい人間を量産する。
現代において、こと若者の間では、インターネットを利用しない人間の方が少数だ。

SNSには、現実世界ではおおっぴらにできない本心が書ける。
そして、他人の本心を覗き見ることができる。

態度というのは発した言葉に影響される。それはインターネットの片隅に書いた言葉でも例外ではないだろう。
黙っていて溜まる鬱憤もあるが、発散しすぎるのは考えものだ。インターネットで鬱憤を書きなぐっていると、どんどん心がささくれる。

インターネットで本心を書くと心が荒む。

心が荒んでいる人間の書き込みを見た場合も心に害をなす。
「喫煙者は◯ね」という書き込みを見たとき、それに賛同しようが否定しようがいい影響は得られない。

感情的な情報は、送信者も受信者もどんどんめんどくさい人間に仕立て上げていく。

このように、現代では情報化社会の影響を受けた面倒な人間が大量生産されている。
その点は「人付き合いが嫌だという甘ったれが増えた」と言っている人たちも納得するだろう。現にその甘ったれこそが面倒な人間のモデルケースだ。「人付き合いが面倒くさい」と言っている人間こそ面倒くさい奴らだ。そう思うからこそ批判したくなる。

おまけに、今はオフラインの知人、友人とオンラインで関係が関係があることもさして珍しくはない。
というよりも、最早オンラインとオフラインの垣根などあるのだろうか?
実名の公開もオフ会も当たり前のように横行している中で。

SNSのアカウントを見れば、大抵はその人物のダークな部分がにじみ出ているものだ。
表面上のクリーンさは潔白を意味しない。「犯罪者を許せない」と模範的市民っぽいことを言っているのなら、それはほとんどの場合、道義心ではなく攻撃衝動由来だ。

インターネットがなければフラットに見ることのできる相手であっても、SNSのアカウントを通して見ることで面倒くさい奴に見えてしまう。

だがこれはどちらかというより、フラットに見ていたと思っていた面の方が錯覚だったと言うべきだろう。
「顔を突き合わせている間には、本来彼の持っている面倒臭さを無視することができていた」と言い換えることもできる。

おわり

再三になるが、「人付き合いを避けるのは甘ったれだ」という言い分もわからなくはない。
昔の夏よりも今の夏の方が暑いのは確かだが、エアコンのない昔の夏とエアコンの効いている今の夏だったら、昔の夏の方が暑いに決まっている。

一昔前であれば、このエアコンの寓話は上の世代の同調圧力へのカウンターとして有意義だったと思うが、今はそんな意義は見る影もない。
ただの「悪習を打破し、時代の最先端を走っている感」を醸し出すためのファッションと化し、「老害」と呼ばれるサンドバッグを生み出した。

しかし、もし彼らが人付き合いの面倒臭さを克服しようとして心を開いたとしても、その周辺にいるのは我々程度の毒された人間ばかりだ。
それが報酬というのはあんまりだろう。

人付き合いを避けたが故の後悔とコストに見合わない報酬、どちらの方がましだろうか。

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