色あせた表紙をさすっている

本を読めば、誰の立場にだってなれると思っていた。誰の話も共感の欠片はあって、それが掴めるとのだと考えてきた。

私は幼少期から本を読むのが好きで、キリスト系の幼稚園でもらった漢字だらけの聖書に親にふりがなをふってもらい読み進めるくらいだった。もちろんほとんどのことは忘れてしまったが。

例として2冊上げさせて欲しい。

小学生の時特に好きだったのは太宰治の人間失格だった。あの時初めて、私も持つこの恥ずべき気持ちを書籍に残した人がいるんだと勘違いしてしまった。「ワザ」を指摘されるシーンを忘れたことはない。私はいつだって調子に乗った時、彼が指さしてくるのを恐れていた。

それから少し嗜好が変わり、ロミオとジュリエットを何度も読み返すようになった。赤毛のアンが大好きだった頃、「名前がなんになるのだ」というアンの言葉はロミオとジュリエットに根ざしているのだと知ったことも大きい。だが、一番は言葉の美しさだった。この舞台で発した言葉を覚えてもらえるようにという祈りが込められているのではないかと思うほど、飾られていてフックのある言葉ばかりだった。

もしかするとここまでの読書の遍歴を見るに、察した方もいらっしゃるかもしれない。

今の私にとって、本を読むことは知っている感情の言語化を探すこと、知らない感情に共感するための足がかりでもある。

ただこの知らない感情に共感するための足がかりだが、結果共感できたことがない。

太宰治の人間失格が大好きだったのは、私の知っている感情を持った人が主人公だったから。ロミオとジュリエットの言葉の美しさに惹かれたのは、彼ら二人の恋心がこれっぽっちも分からなかったからというのもある。

本を読んでいるということは長年わたしにとって唯一とも言える長所だった。

でも、今になったらわかる。私が本を読んでいたのは、自分の中の感情や経験した時の感想の言語化を求めていたんだと思う。

本を読むキャッチコピーに使われる、「知らないこころを知ろう」を出来たことがあっただろうか。

私は友達の恋人の愚痴がわからない。人と手をつないだ時、怖くて手を離してしまった。デートをしたとき、どうパフォーマンスすれば彼の心に見合うだろうかと思ってしまった。多分アプローチをされたとき、泣きそうなくらい申し訳なかった。ロミオとジュリエットの二人の逢瀬を読んでいる時と同じ気持ちだった。なぜ別れないのか、なぜ愛し合うのか。恋するとはどんな気持ちなのか。わからない。

この私のわからなさに名前をつけられることは知っている。そういった人物の出る映画のあらすじを見るたび、肺をうまくうごかせなくなる。

私の読書は、結局経験に勝てないのだろうか。

勝てなくてもいい。ただ糸口くらいは知りたかった。読み方が悪いのだろうか。違う、わたしは面白い物語を読みたかっただけだったはずで。

こうやって持っていた生きづらさと大好きな読書が絡まってしまって解けない。

本を読んでいるから、なにかが出来ると思われるのがいやでしかたなかったのに私は今縋っている。

恋愛がまともに出来ない。普通の人の感覚もあまり分かっていない。そんな私にとっては、それでも自宅の大量の書籍は生きるための手綱だ。

趣味の欄に読書と書く時、いろんなことを考えるようになった。

まだ本を好きになる前の人がいるなら、私みたいにならないといいなあと思う。

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