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十一月に 3

十一月に 2


 夜どんなに遅く寝床に入っても翌朝五時にすっきり目が覚めるようになったのは、二十年前にかつて夫であった男と別居を始めた頃だったかもしれない。もう正確には思い出せないが、イレナはこの日の朝も五時ちょうどに目覚めると、瞬時に起き上がって、座ったまま大きく伸びをした。
 窓の外はまだ真っ暗で、カーテンを開けて確かめてみることはできないが、今日も寒いのだろう、雪が少しばかり積もっているかもしれない。そんなことを思いながら掛け布団をはねのけると、ベッドの側に揃えてあった部屋履きに両足を突っ込んだ。そしてパジャマ姿でナイトキャップを被ったままキッチンへ急ぐ。この小さなアパートの中には自分一人しかいないのだから、どんな格好で何をしようと勝手だ。こんな悠々自適な生活を二十年も続けているのだから、今更また誰かと一緒に暮らし始めるのは土台無理な話なのだろう、と昨晩のあまりにも盛り上がらなかったデートを思い起こして顔をしかめた。
 キッチンの明かりをつけ、職場に持参する茶を淹れるべく、やかんに水を入れて火にかける。それから身繕いをするためシャワー室へ向かう。コーヒーは傍に付きっきりで小鍋で淹れるので後回しだ。
 今年六十二歳になるイレナは、本来なら五年前に既に定年退職するはずだった。五十七歳がイレナの世代で「子供を一人育てた女性」に定められた退職の年齢だ。しかし、その頃のイレナはあまりに元気で仕事を辞める気には到底なれず、独り身での年金生活にも不安を感じたため、彼女の職場が「引き延ばせる最長の期間」だと言う六十五歳まで使ってもらうことにした。そう取り決めた時は嬉しかったが、最近になってやっと「終わり」を楽しみにしている自分に気が付いた。あと三年勤めあげたら自由の身だ。自分は毎日何をして過ごすのだろう、と想像するだけで気分が高揚した。
 歯ブラシを口に突っ込んだまま一旦キッチンに戻り、やかんを火から降ろして大きなティーポットのストレーナーに茶葉を設置してから湯を注ぎ、再びシャワー室に向かおうとしたところで、玄関のベルが鳴った。イレナは内部に施されたマグネットによって冷蔵庫に張り付いているひよこの形をしたアナログ時計に目をやった。五時半過ぎだ。こんな時間の訪問にはもちろん慣れていない。不審には感じたが、誰であるのか確かめたいという好奇心に駆られ、急いで口をゆすぐと玄関へ向かった。
 少し緊張しながら、イレナは玄関ドアに付いているドアスコープをそっと覗いた。玄関の外に、小さな門灯に照らされた孫の顔が見えた。イレナは飛び上がって驚き、すぐさま玄関の鍵を開錠するとドアを開け、
「エミル、どうしたんだい、こんな時間に」
と半ば叫ぶように素っ頓狂な声を出した。それと同時に、ドアスコープの中で門灯に照らされた領域に収まるには身長が足りなかったもう一人の孫のジョフィエが
「ばあちゃん」
と言ってイレナに抱きついた。ジョフィエは何かに怯えているだとかショックを受けている、という印象は与えず、単に祖母に会えたことが嬉しい様子だ。そんなジョフィエとは裏腹に、エミルは笑っておらず、薄暗がりの中でも顔が青いように見える。エミルはイレナの顔を見つめたまま、ゆっくりと
「父さんと母さんが、昨日から帰ってないんだ」
と言った。
 エミルの言葉を聞いて、イレナの頭に最初に浮かんだのは「またあの二人は無責任なことを」という言葉だった。息子も嫁も、いつまで経ってもどこか子供のような雰囲気で、時々こちらが驚くような大人げない振る舞いをする。
 イレナはパジャマの上に元の倍くらいに伸びきったカーディガンを羽織っただけの体を大きく身震いさせると
「とにかく入りなさい、寒かったろ」
と言って二人の孫を中へ促した。玄関から三歩で辿り着くキッチンの小さなダイニングテーブルに座らせ、イレナは普段は使わないティーカップを食器戸棚から取り出すと仕事用に用意した淹れたての紅茶を注ぎながら、エミルに
「どうしてばあちゃんに電話をしなかったんだい」
と聞いた。
「したよ、昨日の夜。でもばあちゃん、家にいなかったよね」
 エミルの返事に、イレナは再び昨晩のろくでもないデートを思い出してため息をつきそうになった。年下の同僚に「イレナさんにぴったりのおじさまを知っている」と言われて引き合わされた”おじさま”は、本当につまらない男だった。あの同僚に自分はどういう人間だと思われているのだろう、と思いながらも、留守番電話の設定もできない自分はあのおじさま同様、今の世の中では「つまらないおばさま」に分類されるのだろうか、と勘繰ってしまいそうになる。イレナは携帯電話は持っていない。電話が四六時中自分と一緒に存在するなんてあまりにも不自然で、イレナには受け入れ難かった。
 イレナがエミルとジョフィエの前にティーカップを置いてから椅子に腰を下ろすと、エミルは手を温めるようにティーカップを両手で包み込み、言葉を続けた。
「朝は、きっとばあちゃんも早く起きてるだろうとは思ったけど、邪魔したくなかったから、直接来ちゃった。仕事に行く前に捕まえたかったし」
「何時に起きたんだい。お前たちのところからここまで、一時間はかかるんじゃないか」
 同じプラハ市内とは言え、イレナのアパートはプラハの西の端に、息子の家は東の端にある。地下鉄を乗り継いでもその前後でバスとトラムを利用しなければいけないことも考えると、子供が気楽に行き来できる距離ではない。
「四時前かな。朝は出勤の人のために五時くらいから地下鉄もバスも本数が増えるから、そんなに大変じゃなかった」
「それで、二人は電話に出ないのかい?」
「最初におかしいなって思ったのが、母さんがジョフィを迎えに行かなかったって分かった時だった。それで、あれは昨日の夕方の四時くらいだったかな、すぐに電話したんだけど、母さんは出なかった。家に着いて、いつも父さんが帰って来る時間帯になっても二人とも現れないから、今度は父さんに電話した。父さんも出ない。それから父さんの職場に電話した。それでも出ないから、職場の他の電話にかけてみたいと思ったんだけど、もうほとんどの人は帰ってるんじゃないかと思ってやめた。ただ、昨日の時点では、まだ気楽に構えてたんだ、あの二人のことだから」
 そう、あの二人のことだから。イレナもエミルも同じ発想だ。今までも何度か息子と嫁は子供たちに何も言わずに出かけてしまうことがあった。イレナが注意すると、息子は困ったような笑顔を浮かべ、嫁は深い青色をした大きな愛らしい目で無邪気にイレナに笑いかけ、「だってエミルがいるから。安心しちゃって」と言った。孫のエミルが両親から受け継いだ子供っぽさは、良くも悪くも外見だけだった。エミルは幼少期から性格はまるで大人で、何でもできた。できる必要もないこともできて、息子は「エミルは天才なんだ」と何度となく言っていたが、イレナもそう思う。
 ジョフィエは、どうなのだろう。まだ小さいから何とも言えないが、このくらいの歳だった頃のエミルよりもずっと子供らしい子供だ。エミルはジョフィエのことを「僕なんかより桁違いにすごい頭脳を持っている」と評価しているが、イレナにはよく分からない。エミルがそんな風に評価しているジョフィエは何ができるのだろう、と思っていたら、この間の夏休みにジョフィエが「あたしが作ったんだ」と言って身長二十センチメートルくらいのロボットを見せてくれた。何ができるロボットなのかと聞くと「踊るだけ」と答えて、テーブルの上でロボットが踊る姿を披露してくれ、笑ってしまった。ぜんまい仕掛けなのかと聞くと「ううん。中に電池が入ってて、充電するの」と言って父親の携帯電話の充電コードを持って来てロボットのお尻に差し込んだ。後になって息子が「ジョフィエに携帯の電池を盗まれて大変だったんだ」と、やはり困ったような笑いを浮かべてぼやいていた。
 イレナの視線は自然とジョフィエに移っていたのだろう、ジョフィエが上目遣いにイレナを見返し、
「牛乳入れて。このお茶、なんか苦い」
と言った。イレナは慌てて立ち上がると冷蔵庫から牛乳を出し、ジョフィエのカップに注いだ。
「砂糖も入れたいかい?」
「いい。砂糖の入ったお茶は美味しくない」
「ばあちゃんのところには、ココアとかないからねえ」
「子供がみんな朝にココアを飲むっていうのは、大人の思い込みだよ。あたしは飲まない」
 すまし顔でそう言うと、ジョフィエは白濁した紅茶を啜った。やはりジョフィエは両親が帰らなかったことを深刻には受けとめていないようだ。
 エミルもジョフィエの顔に目を落とし、ジョフィエの様子を観察するように見つめながら、再び口を開いた。
「今までいろいろびっくりさせてくれた二人だけど、さすがにジョフィを迎えに行くのをサボるなんてひどいな、とは思ったんだ。でも、そのうち帰って来るかもしれないって思って、ジョフィと晩ご飯を作って食べて、二人を待ちながらゲームでもしてればいいやってジョフィのベッドの上で遊んでたら、結局僕もジョフィも寝入ってしまった。朝起きて、もう帰ってるかなって思って全部の部屋を見てみたけど、やっぱり父さんも母さんもいなかった。これまで、あの二人が泊りがけで何も言わずに出かけたことは一度もなかった」
 エミルがそこまで話すと、ジョフィエが顔を少し上げてエミルと目を合わせた。その瞬間、イレナは「ああ、この子は平気なふりをしているだけなんだな」と思った。
 エミルは更に
「もちろんここに来る前にも二人の携帯にかけてみた。昨日は、電話に出ないだけで、着信はしていた。今朝は、電源を切ってるのか圏外なのか、とにかく電話は通じなかった」
と言うと、口をつぐんだ。
 イレナは再び冷蔵庫の時計に目をやった。六時を過ぎた。仕事は八時からだが、七時には出勤している同僚がいる。休みの連絡はその同僚に電話で済ませればいいだろう。そう考えを巡らせてから、イレナは
「二人とも、朝ご飯はまだだね?この際、急いでもしょうがないから、ご飯を食べてからでいいね、警察に行くのは」
と二人に言った。
 イレナの言葉を聞いて、エミルは少し動揺したような、不安そうな目つきになって
「警察……やっぱり、警察に知らせるべきなんだよね」
とつぶやくように言った。イレナはキッチンに向き直ると「何を作ってあげようかね」と考えながら
「エミルも、そのつもりでばあちゃんのところに来たんだろ?」
と問いかけた。
「……うん。未成年の僕が通報するよりも、大人が付いてた方がいいに決まってる、子供だけじゃ信用してもらえないかも、とは思ってたんだけど。いざ本当に警察に行くんだ、って思ったら、そんな大事にしてもいいのか、いつもの二人の悪戯に付き合わされてるだけかもしれないのに、とか考えちゃって」
 エミルの声が、微かに震えている。エミルが怯えるのも無理はない。品行方正な優等生のエミルにとって、警察は今まで世話になることなど皆無だった未知の存在だ。イレナだって、ほとんど同じだ。「警察に通報」なんて、どんな風にするものなのか、全く分からない。ここから一番近い警察署に行ったらいいのだろうか。行ってみたら「行方不明者の現住所のある区内で届け出をせよ」と指示されるかもしれない。連絡が取れなくなった二人は大人なんだからもう数日待ってみたらどうだ、と提案される可能性もある。考え出したらきりがないが、とにかく自分が孫たちの前で不安になっている姿を見せている場合ではない。
 イレナは卵をボウルに割り入れてから、エミルのほうを振り返ると
「届けを出した瞬間に父さんと母さんがひょっこり帰って来るってオチだよ、きっと。今度こそ、二人は恥ずかしい思いをするだろうね、警察に迷惑をかけただなんてさ。後でみんなでしっかり二人を叱ってあげようね」
と笑って言った。
 エミルはやっとこの日初めての笑顔を見せると
「そうだね」
と返した。
 エミルはやっぱり笑顔が似合う。この笑顔は母親譲りだ。息子は昔から何だか恥ずかしそうな笑い方ばかりしていたが、嫁のほうは、笑うとまるでその場に一斉にたくさんの花が開花したような、輝くような笑顔だった。
 イレナは自分が二人の笑顔をあたかも懐かしいものを回想するかのように思い浮かべたことに少なからず動揺した。たった一晩連絡がつかなかっただけだというのに、まるで二人がもう二度と帰って来ないと思い込んでいるみたいじゃないか、とイレナは心の中で自分自身にしかめっ面をして見せた。それから温めたフライパンに卵を流し入れ、とりあえず孫たちにばあちゃんのとびきり美味い朝ご飯で元気になってもらおう、と料理に集中することにした。


十一月に 4 へ続く


『No teda, od rána tohle…!』 19 x 22 cm ペン、墨汁


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