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アイスランドから見る風景:vol.23 Fimbulvetur (フィンブル ヴェートル)-真冬の中の冬 

昨年2022年12月と今年の1月のアイスランドの天候は、20年ほどアイスランドに住んでいるわたしにも、異常に厳しいものだった。メキシコ湾暖流が流れ込んでいる島の西南部ーつまり首都のレイキャヴィークでさえも、日中の気温が氷点下のまま、夜は氷点下10度~15度まで下がった。クリスマス直前に降った雪もそのまま溶けず、およそ60日間巨大冷凍庫に閉じ込められているような状況だった。

気象庁の発表によると、今年の1月の平均気温はマイナス1,8度で、1995年以来の冷え込みだったそうだ。数字だけ見ればたいした寒さに思われないが、緯度の高いアイスランドの風の強さは半端ではない。悪天候のときなど、日本の台風並みである。体感気温は風速1につき、1度強下がると言われる。コンクリートで堅強に作られているアイスランドの住宅でさえも、風速が15m以上にもなれば、どこからか風は入って来る。そもそもコンクリートの熱伝導率は高いので、断熱材を使っていても寒さを100%遮断することはできないだろう。

日照時間が短く、しかも天気のいい日がほぼない上に、この寒さだ。厳しい冬は人の心を挫く。風邪などにかかって体調を壊す前に、こころが先にいじけてしまうのである。鬱々としていた私に、12月中旬からしつこい咳に悩まされていた17歳の息子がこう言った。「寒いのは仕方ないよ。だって、バルドールが殺されたから」何かと思ったら、最近凝っている『ゴット・オブ・ウォー』というプレイステーションのゲームの話だ。「彼が殺されるとFimbulvetur (フィンブル ヴェートル) が来るからね。でもこれはゲームでの作りごとじゃないよ」

Fimbulveturという言葉は、2つの言葉から成っている。fimbul-というのは、”偉大なる”、”脅威なる”という意味で、veturは冬である。日本に例えれば、”真冬の王””冬将軍”と言うところだろうか。他に厳しい寒さを意味するfimbulkuldiという言葉もあるが、このFimbulveturは北欧神話に出てくる特別な気象現象を意味する。この”冬の中の冬”は、神話世界の生きとし生けるものの息の根を止めようする。あらゆる角度から吹き荒れる雪、凍った世界と荒れ狂う風。太陽の姿はない。間に夏を挟むことのないそんな冬が3度も続き、世界の骨の髄まで凍てつかせ、荒廃させるのだ。

北欧神話が現代にまで伝わっているのは、アイスランドの知の巨人、政治家・詩人・歴史家であったストリ・スツルトソンが12世紀に書き残したEdda(エッダ)のおかげだ。彼の偉業は、古ノルウェー語で書かれた韻文を、当時のアイスランド語で散文として書き換えたことにある。それによって、キリスト教が浸透する前のスカンジナヴィア人の価値観や習慣、宗教観が後の世代に伝わった。先祖をノルマン人と仰ぐアイスランド人にとっては、スノリのエッダは自分たちの民族のルーツを教えてくれる、”偉大なる”文化遺産なのである。

高等教育を受けるアイスランドの子供たちは、16歳になると古アイスランド語で書かれたこのエッダを読むことになる。17歳になった息子は、昨年のアイスランド語の授業で、まさにそのエッダを読んだばかりだった。北欧神話の最高神であるオーディンの息子・バルドールの死が、世界の終焉に向けた大戦争Ragnarök (ラグナロク)の前触れであることは、スノリのエッダから来ており、ゲームでもその内容を踏襲している。

ヴァトナ氷河の一部。氷河は夏は溶けるものの、冬には雪が降り積もる。

この高校生の息子は、同年代の男の子の例に漏れずゲームが好きだ。ゲームのストーリー展開に興味はあっても、自分ではプレイをしないわたしからすれば、彼のコントローラーの指捌きは神業に近いものがある。その息子が夢中なゲームがこの『ゴット・オブ・ウォー』シリーズであり、その中でも2018年、そして2022年11月に発売されたその続編『ゴット・オブ・ウォー ラグナロク』が大のお気に入りである。この2つのゲームの背景は、まさにこのスノリのエッダ・北欧神話の世界だ。原作を読んでいるので、息子はストーリーの展開をなおのこと面白く思ったに違いない。

わたし自身、かなり昔に翻訳で北欧神話を読んだことがあったが、息子の情熱にほだされて、本棚から書籍を探し出して再びページをめくった。ゲームのクリエイターが、神話にどこまで忠実で、どこからアレンジしているのか、ゲームを進めながら話し合ったり、予想し合ったりした。通常男の子のティーンエイジャーを持つ母親は、子供との接点を見つけるのに苦労するものだが、幸い我が家ではこんなふうにゲームや漫画、アニメや映画を通して一緒に”遊ぶ”ことが多い。

ゲームの中で圧巻なのは雪景色だ。それはもちろん世界の終局・ラグナロクが始まる、フィンブル ヴェートルの風景である。それが実際の窓の外のアイスランドと重なって見えるほどリアルなのが恐ろしい。どこまでも変わらずに果てしなく続く白い世界、氷と雪の冷たい大地、弱々しい太陽の光をどんよりと鈍く映す凍りついた水面。肌を刺し頬に切りつける風は、体から即座に暖を奪い、手足を瞬時に凍らせる。主人公たちの走る背中を見ながら、室内にいるはずのわたしの体は冬の寒さに震えた。テレビの画面風景を見るだけで、実際に冬体験できるほど、わたしの脳はアイスランドの冬に打ちひしがれてしまっているのだ。

咲き終わる前に冬が来て、凍結してしまったアイスランド・タイム。芳香を放つ薬草で、ラベンダーの様にお茶にすることも、部屋の中や衣類のためのアロマに使われることもある。
アイスランド語では、Blóðberg(ブローズベルク)

つい最近、日本からいらしたお客さんから興味深い感想を聞いた。この方が滞在している間は、残念ながら天候が安定しておらず、1日は雪嵐だった。アイスランドの雪嵐は、空から降る雪と地上に残った雪が同時に暴風に吹き流される。上下から同時に雪が舞い上がると、視界はほとんどゼロに近くなる。岐阜出身のこの男性はこう言った。「日本の雪はしんしんと降るイメージですが、アイスランドは風が伴うので暴力的ですね」

そうなのだ。アイスランドでは、無慈悲な自然の力は人間にとっては暴力と同じなのである。風が20mを超えるような暴風時には、レイキャヴィークでもドーン、ドーンと地鳴りがする。風は行く手を遮るものに容赦なくぶつかり、揺さぶる。オーディンの別の息子・ソールは、すべてを破壊することができる鉄槌を持った雷神だが、雷がほどんどないアイスランドでは、彼は風神ではないだろうか、とわたしは思ってしまう。雷と同じように、風で人の神経や感覚を麻痺させることは問題なくできるだろう。彼が起こす雷鳴は、風鳴りでもおかしくない。

今でこそ、地熱を利用して室内での暖が問題なく取れるアイスランドも、戦前は国内のインフラが整備されていない貧しい北端の国であった。千年前のアイスランド人一般は、地面を掘り起こして土を盛ったような竪穴式の住居に窓を取り付けて住んでいたと言っても過言ではない。数百年に使われていたベッドを見ても、当時のアイスランド人がどんなに小さかったかよく分かる。今で言うイケアの子供サイズを少し大きくしたようなベッドに少なくとも二人以上が添い寝をしていた。暖を取るには、他の家族の体熱が必要だったのだ。火があるのは台所だけだった。

前出のお客さんの言葉ば続く。「これだけ自然の力が強い場所で生活をしてきたのだから、人間の知恵ってすごいです。(中略)アイスランドで快適に生活するにはかかる労力は日本の比ではないですね。それくらい自然の力が強い場所だと思いました」彼の言う自然の”力”は暴力であり、生を脅かす脅威である。冬の悪天候時には、実際に死を身近に感じることがある。今外に出て行ったら数時間内で寒さで死ぬな、という漠然とした、しかし本能が告げる確信である。人類の知恵の結晶である近代のインフラがあっても、そこから1歩離れれば人間はあまりにも脆い。

恒温動物である人間は、外界の温度変動を体温に調節させるという機能においては、本来寒さよりも暑さに強いらしい。直感的に考えると、夏は裸になるのが限界であるのに対し、冬は洋服を幾らでも着こむことできるという印象があり、そこから人間は寒さには強いという印象を受けがちだが、これはいわゆる「乾性放熱」であり、「湿性放熱」の観点を見逃している。「湿性放熱」とは発汗作用という人体の持つ冷却システムを指す。汗をかくことで、人体そのものは寒さよりも暑さに対応しやすいように作られているのだ。

凍結した川岸で佇む野鴨たち。過酷な冬の体験が遺伝子に組み込まれいるアイスランド人たちは、アイスランドで越冬をする野鳥にとても優しい。
スーパーでも野鳥に与えることのできるエサが冬中売られている。

アイスランドに住むわたしには、春の到来が待ち遠しい。厳冬時には正直アイスランドからいなくなってしまいたいくらいだ。そんな話をドイツに住む岩手出身の友人にすると、彼女はこう言った。「岩手の古い農家の家だと、家が広すぎて真冬に家全体を暖めるのはムリ。冷蔵庫の温度の方が、室内よりも高いんだから。寒いから冷蔵庫を開けるのよ。信じられる?」

いえ、信じられません。上には上があるものだ。岩手は冬でも太陽が照り、天気がいい日が多いそうだ。しかし友人の岩手の実家は、どうもわたしの冬の疎開先には向いていないように思われる。同居している座敷わらしには会ってみたい気はするが。

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