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迫りくる高齢両親の老化。夫が下した判断は。

同居している、今年92歳になる義父が、急に体調を崩したのは昨年の春のこと。
がんの延命治療の身で、ついに治療の手立てがなくなって、行きつけの診療所で頂く薬だけで生き延びている義父は、その頃を境に日に日に弱っていったが、身の回りのことは自分でこなせた。

自動車の運転は取りやめになったが、タクシーを使って行きたいところへ行くし、カップラーメンだって食べるし、まだまだ普通に会話もできた。

ただ、足腰が弱っていくさまは感じられ、家の中でも手押し車を押すようになった。


一方で、その頃を境に、今年88歳になる義母の認知症の症状が明るみになった。
それでも、日常生活はこなせていて、それまで通り自分たち夫婦の食事は、義母が用意していた。
時々は、野菜畑に行って、野菜をつくってくれた。
行きつけの診療所へ行けなくなったのを機に、時期を同じくして車の運転を取りやめになったことは、義母にとってショックだったというが、仕方があるまい。


そんな中、更に義父の容態が悪くなったのは、年明けのことだった。

それまでタクシーを使ってでも好きなところへ行っていたのに、その頻度は少なくなり、食事の時以外は、めったに部屋からでてこなくなった。


ふたりとも、薬の服用の管理が、上手くいかなかったこともあるのだろうか。

義父は以前から何かしらの薬が必要だったようだが、基準通りに飲んでいた試しがなく、いつも、過去の薬が溜まっていることはザラだったが、それでも、生活ができていたので、私たちは気にも留めなかった。

さすがに、服用をきちんと守るようにと、訪問看護師さんや、行きつけの診療所の先生から通達がきて、お薬カレンダーを使うことになった。


義父の薬は、几帳面に一日一日間違えることなく減っていくが、義母の薬は減っていかなかったり、減っていくところが間違えたりとしたので、こちらで管理することにしたが、最初は飲んでいる「フリ」などして辟易した。


症状が悪くなるとともに、自分の身の回りのことができなくなった義父は、義母を部屋から呼び出すことが多くなった。

時には、声を荒げて横暴な態度で、接している様子なり声なりが聞こえてきた。
もともと、夫婦ともに時間を過ごすことのなかったこともあるが、そう頻繁に義父が義母に声を荒げることはなかった。
(私は夫に言い返し、喧嘩をすることもあるけれど)義母は、いつもそう言い返すことはしない。

それも、一因なのかもしれないが、義母の認知症の症状がさらに悪くなり、場所や人が認識できなくなった。

調理は、一切やらなくなった。
野菜畑にも、行かなくなった。


そして、先月の中旬から、ここ数週間のうちに、さらに義父の状態を悪くするのと同じタイミングにして、義母の認知症の症状は一段と進んだ。

とうとう、義父のことを、自分の夫と認識しない日が続いた。

何度となしに、同じものを引き出しては洗濯物をたたみだしたり、洗ったはずの洗濯物を洗いなおしたり、収納スペースのものを、幾度となしに引っ張り出しては片付けたりと、私たちには理解できない行動が目立つようになった。

トイレや自分の部屋の場所が、分からなかったりということも現れだし、家は家ではなくなった。


認知症の症状がすすんでいるのは、一目瞭然だったが、共に数時間居ないと分からない。
自分の姉妹や、近所のおばちゃんと会話をするときは、もとに戻ったりする。


だけども「あの人は、いつまでいるのか」などと聞いてくる様子から、義父の傍にいることを拒否しているのかと思わせるようなこともあった。


かといって、家では医療措置をしているわけではなかったし、特に私たちが、常々ついていなければならないということもなかった。

私たちも、仕事に行かなければならない。


だけども、義父自身は寝付く一歩手前の状態で、とうとうベッドから一歩も動けなくなって、部屋にポータブルトイレを置いて用を足すようになった。
腰には、尿をとりためる袋が下げられている。

それも、義母の介助がなければ難しそうだ。

数日前には、真夜中に義父のトイレで、ひと悶着があったようだ。

ハナレで寝る私たちは知る由もないが、そのせいだろうか、義母に昼夜逆転の症状が現れだしたりした。


この数週間のあいだは、食事をしようにも食器を持つ手もおぼつかない。

私が、時々、口まで食べ物を運んで、薬を指に乗せ、薬を放り込んだりした。

声のはりもなくなって、会話するにもおぼつかない。

デイサービスに行こうにも、着替えることができず、着替えを手伝った。
1メートル移動するのに、介助をしながら、1分くらいかかる。

朝は「おはよう!朝ごはん食べて、お薬飲もうか」と起こすのが、習慣になりつつあった。


おかずをなかなか食べようとしないことは、義父の、もともと偏食でわがままなところからきているのだろうかと思っていた。

しかし、顔色が悪かったり、全身のむくみが激しくなってきていることが、食欲がないことや、体調がおもわしくないと察することにつながったので、途中から、お粥をさらに柔らかくし、米の割合を少なくしたり、おかずはほとんど介護職のようなものを用意したり、買ってきた介護用のゼリーを持って行ったりとしたが、できることは限られている。


私たちは、農作業があるので、限られた時間の中でしか、義父の世話をできないし、義母の様子や、口から出てくる言葉からすると疲弊しているのが分かる。

もともと、ちぐはぐな事を言っていたが、内容は度が増していき、疲れからか、洗濯物を取り込んでいるときに倒れかけたという。


夫は、思うところがあるのか、奥の部屋にいる義父の様子をなかなか見には行かなかったが、両親がダブルで様子がおかしくなっていくさまに、かなりのストレスを感じているようだった。


そんな中、義父が、訪問看護の点滴を拒否するようになり、この先の看護体制について問われたことは、夫にとって、今の状態を、冷静に考えるタイミングのようだった。


その日の夜、私たちの部屋で聞かされた第一報。

「おとちゃん(義父のこと)、入院するように進めてもらっているから。」


え?!


頭の中がフリーズしたと思った瞬間、涙があふれた。


え・・・・?!


こんなに戸惑った涙は初めてだった。


正直、介護に一歩足を突っ込んだといえばおこがましいが、その状態がずっと続くかと思うと不安もあった。


何もかも初めての経験だった。

子供に靴下をはかせはしたけれど、大人に靴下をはかせたことはなかった。
目上の人に、食事をさせるのも、薬を自分の指で放り込むのも初めて。
着替えを手伝うのも、顔を拭くのも、歩行の介助も。


ほんのわずかな間経験するだけで、介護職の方たちの苦労を、更に想像するようになった。

ずっとは、無理かもしれない・・・。


これが本音だった。


だのに、なに?!

この涙は・・・。その思いとは反してとめどなく涙は溢れた。


「そうやんな。きれいごとだけでは済まされへんよな。私もこれ以上無理かもしれんし、義父さんの体調と、義母さんの負担を考えると、それがきっと、いいんよな・・・」

そう、思いを切り替え、夫に伝えた。

入院の旨を告げられた義父は、渋々了解の意思を示したが、珍しく身体をおこし、長い時間何も言わずに、ベッドに腰かけて、思いにふけるようにして窓際を眺めていた。


決行日は早かった。

次の日には、行きつけの診療所からの紹介状がきて、その次の日には入院となったが、義父の入院まで、一日の猶予があったことで、私は思ってもみない形で、自分の涙の意味と向き合えた。


お陰で幾分すっきりした私は、その次の日、気持ちを切り替えて、できるだけ聞こえるように大きな声で、義父を見送ることができた。


義父さん、行ってらっしゃい!


また、帰ってきてね・・・。そう願いながら。


義父のがんは、肝臓から肺へ転移しているという。
最近は、痰に血が混ざっていたようだ。
利尿剤を服用しているが、尿はでない。
そのせいで、顔も足も浮腫みがはげしい。


余命宣告をうけて数か月。


「義父さん、また、面会行くからね」と、言ったものの、面会できるのは家族ふたりまで。

義母が、義父がいなくなって寂しそうだったので、夫と面会に行くのは義母に譲り渡そうと決めていたのに、まだ決行されないでいる。


大部屋での入院のため、ベッドのままでの移動で、病室ではなく別室での面会だと言われて、夫は面会を取りやめを決めた。


義母には、先は短いということを言い渡した。


前もって言っておくことは、義母の様子からすると、夫なりの気遣いだと思う。


義父さんに、今度はいつ会えるだろうか。


複雑なヨメの心の内である。

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