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私の名前を呼んでくれる有り難さ

1週間ほど前のこと。夫に義父が入院することを言い渡された、次の日の朝。


いつものように、息子に柿畑に送ってもらい、仕事をしようとしたその時。不意に昨晩のように涙がでた。
夫に、義父が入院をすることを言い渡されたその時も、涙がでて仕方がなかった。


初めは何の涙か、分からなかった。


自分がなんで泣いているのか、分からなかった。


だけども、誰ひとりいない畑で泣くには遠慮はいらなかった。


あんなに声を出して泣いたのは、いつぶりだろう。


畑で泣くのは、たいてい夫と喧嘩するときくらいだった。


義父さんが入院してくれたら、私の負担も減るじゃない・・・。


なのに、なんで?


泣きながら、どうせなら、涙と向かってみようと思った。


じわじわと溢れてきたのは、義父がわたしの名前を呼んでくれることのありがたさ。

義母は、わたしのことを、さん付けで「kakiemonさん」と、呼んでくれていたが、私の名前がでなくなったこともあるのかもしれない。


父も母方の祖母も認知症になって、私の名前が出なくなった経緯があるので、そんなにショックではなかった。

夫が義母から名前を忘れられたときに、少なからずショックを受けたように、父に名前を忘れられたときが一番衝撃だった。

名前だけではなく、父は私を娘と、祖母は私を孫と認識していなかった。


それに比べれば、義母は他人。
そのときの、衝撃に比べれば何てことはなかった。


だけども、改めて気付いた。


今や、私の名前を呼んでくれるのは、義父だけ。

実母は幼い頃から、私の名前を呼ぶとき、他の兄弟の名前と間違えることがよくあった。頻繁にその兄弟の名前を呼び、愛情もそっちに傾いていたのも分かっていた。
だから、私の名前がでてくるのは、いつも一番あとだった。

そのことを思えば、義父は普通に呼んでくれる。
数は少なかったけど、実父が呼んでくれたように。


私は、自分の名前が大っ嫌いだった。

母が言い間違えるからだとか、母からの愛情が感じられないからだとか、そういうのではなく、自分のことが嫌いだったから。


いつも同級生に、同じ名前の子がほかにいた、ありふれた名前。

性格と一緒で、とても地味なその名前。


名づけの本を吟味して、父が思いを込めてつけてくれたというのに、好きになれなかった。


だけども、今となっては、自分の名前が恋しい。

その恋しい名前を、呼んでくれる人がいることの有難さ。

自分のことが、好きになったこともあるのかな。

親に呼ばれなくなって、寂しいのかもしれない。


だけども、義父は、私が嫁いできたときから、私が子供の名前を呼ぶみたいに、呼び捨てで、自然に名前を呼んでくれた。


義父の介助に携わるようになってから、更に多くなったのかもしれない。


その義父が、入院してしまう寂しさ。


そこに気付いた。


だから、入院するその日、思いを伝えることができた。


入院の日の朝、いつものように、朝ごはんと薬をもっていくと、ベッドに腰をかけて待ってくれていた。

いつもなら、介護用のベッドをボタンで起こしたり、私が起こすのを手伝ってやっと起きるのが日常だったけど、その日だけはちがった。

そして、義母が部屋をでていくと、食事の前に、開口一番、義父が口を開いた。


「kakiemon、まぁ、〇〇先生がせっかく紹介状書いてくれたし、行ってくるかな」

「そうやで。○○先生にはお世話になってるし、先生の顔を立てるためにも行っておいでよ。

それに・・・

家に居ても、栄養とれやんで。そのままやったら、私の名前も忘れてしまうくらい、元気なくなるやん。義父さんには、さいごまで私の名前、覚えておいてほしいねん。

義父さんが、名前覚えていてくれてるのん、わたし、嬉しいんやで。」


「わしは、ぜったい、kakiemonの名前、忘れへん。ゼッタイ最後まで覚えてる。忘れるもんか。」


「あの病院はリハビリにも力入れてるっていうし、もしかして、リハビリもしてくれるかもしれんで。それに、病院で居てたら、必要な栄養もきちんと管理してくれて、また、元気になれるかもしれんで!」


一度は、看護師さんに促されて、入院をすることに承諾の意思を見せたにもかかわらず、次の日には、それまでの意思を翻すように、拒否をした経緯もあって、なるべく明るく見送らなきゃと選んだ言葉だ。


一晩経って、義父もいろいろ考えたようだ。


ベッドからの移動に時間がかかるため、息子を巻き込んで、早くから準備にとりかかり、無事、夫が運転する病院へ向かう車を見送った。


庭で見送るや否や、私たちの部屋へやってきて、義母はぼやいた。


「あの人、すぐ怒るんや。怒ってばっかりや。わしは悪くないのに・・・。」


そう・・・そう・・・


黙って相づちを打ちながら聞く私に、長々と話す義母。


それから、日を増すごとに、義母の認知症の症状は治ることはないが、落ち着きを取り戻しているように思う。

「あのおばさん」「あのおじさん」と義父のことを呼んでいたのに、もとの愛称がでてきた。

義父の介助をしていたあいだは、訪問看護師さんも言っていたが、まるで自分が召使になったかのように振る舞っていたが、義父に会いたがっているのも分かる。

今までだって、義父のことを、夫と一緒にこなしていたのも知っている。


最初は、義父が入院するのを心待ちにするような素振りを見せていたが、もともと義父の存在がなければ、どうしてもやっていけない人。

義父ほど、なりふり構わず勝手な夫は居ないと思うが、義母は義父が居ないとやっていけない人だということも知っている。

義母が10代で嫁いできて、60年以上も一緒にいる年月もそうさせるのかもしれない。

だから、昨年初めに義父の命が危ぶまれたときには、独りになる不安に苛まれているのも分かった。
認知症の症状が表立ったのは、その時期だ。


だけど、先ほど聞こえてきた義母と義父の電話での会話が聞こえてきて、胸がギューッとした。


そうやって、元気になってくれてるんやったら嬉しいよ。
時間はかかってもいいから、元気になって、ウチに帰ってきておくれよ。


涙声の義母の声が聞こえてきて、何とも言えない気持ちになった。

義母の義父に対する思いもまた、私と同じように複雑なようだ。


50年ほど一緒に居て、亡くなった自分の夫の葬式に顔をみせることも、お骨を拾いにもこなかった母とはちがう。
母だけが、悪いのではないのだろうけど。
私が見てきたとおり、両親のあいだに愛がなかっただけだ。


義母の口からは、夫の名前もでてきた。

昨日は、久しぶりに私の名前も「kakiemonさん」と呼んでくれた。
おそらく、数週間ぶりに。

いままで義母の妹と認識されていた義姉が、先日来てくれた時には、義姉も「名前を呼んでくれた」と喜んでいた。


だけども、今朝は、義母が隠したデイサービス用のカバンが見つからなくて、てんやわんやした。


終わりはいつか来るのだろうが、前途多難だ。

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