生成AIとルーズリーフ・テンキーとフォーマットの流布と展望としての属人性

生成AIについて

よくタイムラインで見かけるのが、生成AIに対する是非の話題であって、絵の書き手に対して無断で絵を学習してその内容の出力をAIサービスの利用者にもたらしている。そうした問題点についての議論を見かけます。絵が不得手な人も含めていろんな人々のイメージや絵の生成を手助けしてくれるというのは、ある面では良いところもあるのかもしれません。しかし、AIのそのような高精度の出力が可能になったのは、ある種元々の絵の書き手の作品や過去の発表が基となっていて、しかもその学習はフリー素材的に取得されていたデータから行われているもので、しかもAIサービスによるその出力は元々の絵の技術を持っていた書き手に対するプレッシャーの発生のような現象も現在起きています。つまり、「AIがそのような出力を広く許してしまうとするならば、自分の絵というものは果たしてどうなってしまうのか?」そうした不安に押しつぶされそうなイラストレーターが徐々に現れてきている。
そうした、企業資本と個人の歪みのような現象が現在発生している、と。

100円均一のルーズリーフについて

以前、小さいサイズのルーズリーフを探していまして、その小さいサイズ(A6やB6)の用紙でファイルでまとめられるようなものがあれば良いなという風に考えていました。最初A6のサイズで探していたのですが、全く見つからず、最終的には簿記用のB6のコクヨの補助帳のルーズリーフを使って解決をしたのでした。

その過程で、100均一のルーズリーフを探したりしたのですが、100円均一のルーズリーフが並んでいるんですけれども、もうすでに販売されて好評を博したような形態のルーズリーフしか無かった感じでした。
具体的に例を挙げるなら、マルマンの変形B6サイズのみにルーズリーフの100円均一のルーズリーフ版がありました。

こういう経験から、製品というものはあらゆるニーズに対してあらかじめあらゆる商品の形で対応しているというよりは、もうすでに世に出回って存続している形のモノがあらゆる場所で順繰り順繰り流通していることが多い、そういうことに気がついたわけです。

理想のテンキーを探して

その時期に並行して、自分はPCキーボードのテンキーを探していました。机のスペースがないものですから、ローマ字の部分とテンキーの部分が独立しているような状態を求めて、テンキーでありつつしかもコンパクトなものをさがしていました。
でも、自分の理想とするテンキーのデザインというのはなかなか無くて、興味をそそられるようなデザインは幾つかあったのですが、ある程度妥協する形でコンパクトなテンキーを手に入れたわけです。
この商品検索の過程で考えたのは、本当に自分が理想とするようなテンキーが欲しいのなら自分で作ってしまえばいいと。
自分は電子工作のスキルが全くなくて、最終的にはこれを諦めざるを得なかったのですが、商品検索で様々な商品を見るにつけ、興味深いデザインがあったとしてもその同じデザインがここでもまた順繰り順繰りと発売元を変えて類似のデザインが現れているという事態に遭遇していて、テンキーが欲しい人にウケたデザインというのはその他の作り手にアイデアとして引き継がれていってフォーマットとして流通する、そういう市場のダイナミズムみたいなものを考えついたわけです。

フォーマットの流布について

もしも、自分がテンキーを作る技術があって、自分の理想のテンキーをひとたび作って自分でそれを「使用しているよ」と発信して、それが他の人の「これを作りたい」という気持ちを刺激することが出来たとするならば、当然、ルーズリーフやテンキーの例のようにそのアイデアやフォーマットの流布に貢献することになるのではないか。
自分は、若干おかしいことに←、そのフォーマットの流布というところにとある価値を見いだして、自分の考えを周囲が用いていることそのものに価値があるのではないか?という風に考えました。
以上のルーズリーフ・テンキーの例を見ると、アイデアというのはパクられて当然なわけです。誰かが有利なものを作ったとしても、後から資本が大きい(=製造拠点を持っている・多量の生産が可能であるなど)会社や個人・機構体がそのアイデアをもって後からそれを用いて、最初に作った人よりもより他の人に対して利用しやすく・入手しやすくそれを販売し展開する、そうしたことはこの2つの例の外にも多く見られていることではないかと私は考えます。
とある考えがあるとして、自分が思いついたとかどっかで見かけたとかそういう吸収の中でそれぞれの人がその考えを用いていくわけですが、これの元を辿っていくとそれはコイツなのではないか、と。自分が考えを保有している・その考えでもって何か事業を為し自らを豊かにするという考えもありなのですが、「その第一人者になるということにある種の喜び・納得を感じる、そうした思考があってもいいのではないか?」という風に考え始めたわけですね。
最近でこそ、ChatGPTのようなテキストデータから内容を学習するAIサービスもあるようで、そうすると「これの出所はコイツなのではないか?」ということすらも隠蔽されて、あたかもAIサービスから自分が出力を勝ち取ったという実感でもって、その考えを利用することだってありえると思われます。つまりは、出力を勝ち取った私自身のものと。
しかし、その考えが発生したという事実は抹消できません。その考えを持って、人々はさらなる考えを展開することが出来ますし、それが新たな障害の克服や新たな発見に寄与する可能性だってあります。
そうやって考えてみると、自分が何かのアイデアを生み出したということが世の中の進展を持ってリターンされる。そしてその実感の中で自分は生きていてその一員である。そうした認識だってアリなのかもしれません。
少なくとも最近は、自分はそういう認識を持って、良しとして眺めている。そうした感覚であります。

これから問題になるのは属人性である

アイデアのフォーマットの流布というものがテキストであるならば、アイデアをパクるパクられるというのはアイデアの所有や所在の存在はかなりあいまいなものであるでしょう。
しかし、絵、そして音楽や人の発声というところまで及ぶと話はどうなるでしょう。これらのものはその人の特徴・性質・キャラクターというものが大きく反映されていて、もしかしたらそれらからの作品はその人固有のものを形成しているとまで言えるかもしれません。
ただ、そうした固有のものが簡単にテキストの指示によって類似したものが生み出されてしまいます。簡単にタッチがまねられてしまうわけです。
つまり、固有なもの・オリジナルなものは徐々に薄まっていくと。
こういう事態に対して、どういうことが対抗としてあげられうるかというと、基本AIサービスを利用してみた感想としては、平均点の出力といいますか、そうした出力でしかないと思いますし、自分の表現したい内容をAIサービスが100%実現してくれるようなものでもありません。
最終的には、その人がどういうことをそこに込めたいか、その人が作品の連続でもってどういうことを確立したいか。そういうことがアーティストに問われていくのではないかと思います。
僕はそれを作品への属人性であるというふうに表現します。
作品を通して、その作り手の考えや思想を組み込んでいく。
生成AIに出来るのはあくまでムードでしかないのであって、諸楽曲の平均値でしかないのであって、そこに抑揚はありません。
AIに思想を吹き込もうとしても、それはてんでバラバラな即時の反応物でしかないのであって、しかもAIには禁止事項がプログラミングされていて、AI自身もそれを認識することは出来ないようです。
その時々の表現物をとある一つの統一した連続体として考えて、そこに人の生き様や態度といったものを関わりの中で作っていく。そうした営みに対してはAIは為すすべがないと私は考えていますし、そうした部分は人間にしかできないことと思われます。
何か新しい表現がAIから生まれるとは私は想定していません。例を挙げると歴史上ではキュビズムやシュールレアリズムといったことになるでしょうか。AIが出力するのはあくまで博物館的な歴史からの出力物でしかないのであって、新しい表現を作るのはやはり人間ということになると思っていて、そこに作品を作るあなたの、まさにその思想が大切になってくる。
あなたの考えることというのは大切であって、今のところ、そういう風に私は考えているわけです。

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