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①ありフェス実行委員長・岡野シゲオを育てた街はやっぱり…!

シゲオさんを育ててくれた街や成長させてくれた街はどこ?という質問から始めていきます…答えは分かっているのですが(笑)。
ね、これは即答でしょうね。大槌町ですね。生まれてからもうすぐ50年になりまして、細(こま)い話をするともう1箇所・18歳から9年間は仙台にいましたけども、良いも悪いも大槌が全て、で生きてきた感覚ですので。
元々マニアックな人間で、今みたいにネットも通販もなかった時代、欲しいものがすぐ手に入る時代じゃないし手に入らないものだらけだったんですよ。高校生の時にヴィヴィアン(・ウエストウッド)のマフラーが欲しいなと思ったって手に入んない。だけど仙台に行くと店があるわけ。自分が好きだったものを現実的に、夢でしかなかったものを広めてくれたのは仙台ではあるんだけども。

岡野シゲオ
2012年から岩手県大槌町で開催されている
おおつちありがとうロックフェスティバル(通称ありフェス)
実行委員長
おおつち ありフェスRADIO ラストエディット」等
ありフェスにまつわる様々な発信も自ら行っている
映画が大好き 趣味はランニング

そんな仙台から、大槌に戻ったのは?
これは田舎の特色と言うか、やっぱり、長男だからとか親が住んでるからとか、子供ながらに自分の立場を考えるわけですよ。だからいずれ大槌に帰ってくるだろう、仙台には“1回、行ってくるね”っていう感覚でした。
自分の夢を追いかけて都会で暮らしている方も沢山いますよ、でも、俺はなかった。深く考えたこともなかった。スポーツ系のショップで店長をやってたんですけど、社長がそのお店をたたむっていうことになって、“タイミング的に今だな”って。30(歳)手前ぐらいに大槌に帰って来ました。

今回のインタビューで掲載している写真は
「ありフェス」第1回目(2012年)開催時のものです

いずれ大槌に帰るとは思っていても、シゲオさんが仙台に出られた時に描いていた夢とかもあったんですよね?
これがね〜、俺の周りの人は耳にタコな話ですけど(笑)、映像が大好きで映画を撮りたかったんですよ。全然知識もないしなれるわけもないんですけど、漠然と映画監督になりたい、出来れば映画関連の仕事に就きたい、だから仙台でそういう学校に行ってるんです。結局、(学生時代に)バイトしてたショップに就職することになるんですけどね。こう見えて一応、台本とか書けるんですよ(笑)。
実はね、仙台で店長をやってたショップが閉店するのが決まってから“雇ってくれ”って(笑)、(映画の)製作会社に自分から行って。1社だけ“いいですよ”っていう返事があったんですけど、ちょっとね、その給料じゃ暮らしていけなかった。若かったし、逃げたんでしょうね。それで実家に帰って来たんです、本当のことを言うと。大槌に帰らないで生きていくっていうのも、1回は考えたんです。
某・憧れの俳優さんが、あるオーディションに破れたブラックジーンズとパーカーで行ったっていうエピソードがあって。それに憧れて“俺もやってやるぞ”って行ったら、“そんな格好で来るなんて失礼だ”って言われましたけどね(笑)。でも今考えると、一般人がそれをやっちゃダメだろうって思いますよね(一同笑)。

最初のありフェスは
シーサイドタウンマスト(ショッピングセンター)
屋上で開催された
(以降、開催年によって開催場所は変わっている)

でも映画を観ようにも、大槌では正直、大変だったのでは?
本当にそうなんですよ。でも俺らが子供の時にはまだ釜石(市)に映画館が確か2つあったの。大槌には映画館がなかったけど、釜石は隣町みたいなもんで全然遠くないし。小4の時かな、「幻魔大戦」(1983)を1人で観に行って。親が“何時のバスに乗れ”って書いた紙を持って行ったら、学区外に来てるからって警察に捕まったこともあるんだけど(笑)。
そしたら今度はビデオが出てくるでしょ、それからは“家で映画、観れるぜ!”って。東日本大震災の前の日までレンタルビデオ屋さん(サンホームビデオ)も大槌にはありましたからね、足繁く通いましたね。俺の仲間も皆、けっこう映画とかドラマを観てますし詳しいですよ。ライブハウスとかはなかったけど(笑)、小さい街でもレンタルビデオ屋はちゃんとあってね。
それでちょっとありフェス(=ありがとうロックフェスティバル)の話になっちゃうんですけど、ありフェス開催の話が出た時に町のみなさまはびっくりしたでしょうね、いわゆるフェスとかには縁遠い町だから。だからこそ、ありフェスがどういう意味を持つのかが、分かる人には分かる。
ありフェスのお話は追ってたっぷりとしていきましょう。話を戻して、シゲオさんが映画にハマるきっかけになった1本って?
娯楽という面で自分が入り込んだのは、ジャッキー・チェンかな。お金をかけたものがスクリーンで見られるっていう娯楽性を子供ながらに理解して、映画を観るようになって。親にはよく怒られたんですけど松田優作さんとか萩原健一さんとかが大好きになって、松田優作さんの「蘇る金狼」(1979)を観た時、もう絶対に映画だ!スクリーンの中でこんな世界が見られるんだ!って。枝葉を広げていくと“もういいよ、そんな話!”っていうぐらいマニアックになるんで(笑)これぐらいにしますけど、子供の頃はサッカーもやりながらね。
話の振り方が急ですけど(笑)、サッカーもやってたんですか。
やってました。(田中)正道(/ありフェス実行委員)さんが、サッカー部の1つ上の先輩なんです。“あれ?サッカー部にいましたっけ?”ってよくネタにされるぐらい俺なんかは下手くそでベンチが試合会場(笑)みたいな感じで、スポーツのセンスというものは全くなくて。でも彼らのそばにいるのが好きでね。
シゲオさんのお名前からしても、あと世代からしても、スポーツなら野球なのかな?って思ってましたが。
これがね〜、“長嶋茂雄の生まれ変わりだ”って親は名付けらしいんですよね、長嶋さんの引退した年に生まれてますから。でも野球は1回もやったことがない(笑)。野球って、シャツインじゃないですか。シャツインでヘルメット…っていうのが子供心に(笑)。だからやらなかったんですけど、親父は野球の指導者なんで日常に野球はあったし、詳しいし、好きなんですよ。
そういえば、大槌にサッカー場が出来ましたよね?
出来ました(大槌町営サッカー場/2021年完成)し、東日本大震災を抜きにしても正道さんと元・日本代表の小笠原(満男)選手は繋がりがあってお知り合いなので、鹿島に招待してもらって当時の子供たちを連れて行ったりもしたんですよ。その時の子供たちは今、30歳ぐらいとかになるのかなぁ。ここだけの話ですけども、 どの年だったかは忘れたけど、満男くんが3月11日に大槌の復興食堂(※写真下にあるリンク参照)にいた時があった。あの時間に黙祷してくれてね。

「復興食堂」については
花男くんのインタビューでも話題にのぼりました
復興食堂に関しては花男くんの時と同じく
岩手在住のシンガーソングライター
松本哲也さんのブログを
ご参照ください(コチラから

【「②「岡野シゲオの大切な1曲」に続く/5月17日更新予定】

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