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見た目のコンプレックスの話

とあるインタビューで自分の見た目についての話を読んで、それからしばらく見た目のコンプレックスのことについて考えていた。これまで考えていたことや今書きながら考えたことを、自らの見た目のコンプレックスとそれを取り巻くあれこれについて乱雑につづってみた。少し長いけどお付き合いいただけたなら嬉しい

自分の顔にコンプレックスを抱えるようになったのはいつからだろう。少なくとも小学生の頃はそんなことはなくて中学生くらいからだろうか。

私は子供の頃アトピーが本当にひどくて。自分でみても鏡に写る自分の顔が汚く思えてしまったことがはじまりかもしれない。あるいは写真に写る自分の姿が嫌だなって思って、行事の時などに自分の顔が写らないように逃げるようになったことがはじまりかもしれない。

とにもかくも理由やきっかけはいつだかわからないけど私は自分の顔にコンプレックスがある。なんというか過去のいろんな瞬間でパーツたちを嫌だな〜って思ったり、人に言われた言葉だったり、いろんなものを積み重ねて思うようになったのかもしれない。

別にイケメンになりたいわけでもないし、そう思われたいわけでもないのだ。ただ、醜いと自分で思わなければ、人を不快にさせなければいいのだ。そう思ってしまう自分をつくづく嫌になる。

なら思わなきゃいいって話なんだけど、もうなんというか人生の中で思い続けてしまったからその思いの蓄積なんだろうな、と思う。実際自分の顔が世間一般の物差しで良いかって言ったら良くはないけど、じゃあめっちゃ酷いかっていうとそこまででもない。

生きている中でしばらく鏡を直視するのもなんだか嫌だったから、そうやって逃げているうちに自分ではどれくらいなら許せるのか、もあやふやで嫌になって。でもそう思っている自分も嫌で、意識的に鏡を観るようになったら、なんだか見慣れて慣れところもあるにはある。自分の顔に。

なんというか主観のコンプレックスを一旦おいておいて、そういうものだって需要できたのかもしれない。

でもさ、ときどきまた自分の顔が微妙だなーとか思っちゃう自分がいるのが嫌になる。

ここからがやっと本題。

いわゆるルッキズム的なものがずっと自分は嫌だった。嫌でありながらそれに翻弄されることがある自分も嫌だった。周りのいうそういう言葉に迎合してしまったことがある子供の頃の自分の罪も含めて嫌で仕方がない。身長とか顔のパーツとか当人の心のありようでは変えようのない部分で人がジャッジされる行為そのものが嫌なのだ。時々それに流される自分がいる時があるのも嫌になる。

そもそも見た目でのジャッジの何が嫌か、という感情の根源は学校にいたときから感じ続けている「表層的な見た目やふるまいで人のなんたるかがジャッジされてしまうこと」に対する憤りの繰り返しから来ているのだと思う。

私はかつで自分を含め人に興味が全くなかった。中学生くらいのある時から人をちゃんと知ろうと思うようになってから、今まで気づいていなかった人の魅力や誤解にたくさん気づいた。今までの自分の愚かさに気づいたからこそ、同じように人を見ようとしないことに憤ってきたのだと思う。

だからこそ世間一般の物差しで見た目の良し悪しをはかり、それによって人をジャッジする行為に嫌悪感がある。見た目だけでその人の心までわかった気になられているような気がして勝手に悲しくなる。

かわいいとか、かわいくないとか、かっこいいとか、かっこよくないとか、気持ち悪いとか、気持ち悪くないとか、そういうの関係なく大事にできればいいのにって。

そのくせに自分に対するコンプレックスを抱くっていうのは、それ自体が矛盾していると思うのだ。人を見た目で評価しないなんていいながら自分のことは見た目で評価して、コンプレックスを感じている最大の矛盾。自分が嫌だから嫌なのか、人から何かを言われるから嫌なのか、もはやなんなのかわからない感じ。

そんな風に自分でもよくわからない感じをぐるぐるさせながら生きている。とにもかくも、本当の意味で自分の見た目のコンプレックスから私は抜け出したいのだ。

自分にも他者にも見た目の上で評価的になりたくないのだ。例えばせめて肌を綺麗にしようとか一つ努力をはじめると、そうでない他者の不摂生さにも気づいてしまう自分がいて、そういうまなざしを持ってしまっている自分になんだか嫌気がさす。そんなときもあった。

兎にも角にも何よりも、私は私が思う誠実さで、人をまなざせる人でありたいのだ。胸を張ってそうありたいのだ。だからこそ自分の見た目のことだってぐるぐる思わない自分でいたい。だからせめて自分の見た目に否定的になる自分からはおさらばしたい。

結局他人事だから言えるんじゃんって思われたくない。自分自身がそう思いたくない。

一番言いたいこと。思いたいこと。

自分の中の感情でたしかなのは、触れ合った人や、スクリーンの中で観たことがある人たちの、丸い鼻も、小さな目も、離れた目も、不揃いな歯も、どれもああ好きだなって、愛しいなって思ったことがあるってことで。世間一般の理想とは違うのかもしれないけど、それは誰かにとってコンプレックスかもしれないけど、でもそれを心から好きだなってピュアに思った自分がいたことは間違いなくたしかで。そう思った自分を何より否定したくない。

それは言い聞かせるとかじゃなくて自然に思ったことで、その感情すらも、否定したくないから、その片鱗を自分に見たときにも否定的じゃなく在れたらなあって願ってしゃあない。

ここまで書いてみて。

自分の見た目のコンプレックスのことって自分でもなんだかよくわからなくて、多分ここに書いてあることだけでも収まらくて、自分でも自分についての感覚で合っていることも合っていないことも多分書いた中にもあって。だからまた書きたい。し、今までなんだかんだ書く機会は少なかったから書いてみてよかったなと思う。

書くことで見えてきたことも合ったなって思う。きっと自分は自分に対するコンプレックスのせいで、他者に対する自分のまなざしにさえ自信を持てなくなるのが嫌なのだと気づいた。そのためにこそコンプレックスとの決別が必要だし、それはきっと今どう思うか、よりも、過去に繰り返してきた自らへの否定の数々を優しくほどいてあげることからはじまるのかもしれない。道のりは長そうだ。けど、ここからまた、新しい世界がはじまるような、そんな予感。


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