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手放してしまったのは自分の心なのかもしれないね。

コロナ禍の世界で、人と人との距離は、前よりもずっと遠くなった。

東京というコロナが蔓延する世界で独り身で生きていると、人との距離を強く強く感じた。

しかし、最近気づいたことがある。
人と人との距離以上に、遠くなっていたのは「自分の心」と「自分自身の距離」なんじゃないかと。

私は自分の心に鈍感だ。自分自身の扱いが丁寧ではない。だから辛いことや嬉しいことがあってもついつい感情を噛みしめることなく通りすぎてしまう。

だからこそ人と関わることを通して、人と関わるからこそ、人を知ることで自分自身のことを知ることができた。そうやって生きてきた。そうやって「生」を感じてきた。

だから自分にとって人とかかわることは、自分が生きていることを実感するために必要不可欠なことだった。

コロナ禍での生活を送ってきて、寂しがりでもないし、人に依存しないタイプの私は、普通に生きられてしまった。なんなら自炊や掃除洗濯を前よりも丁寧に、頻繁に行うようになってQOLは向上した。体調は安定し、スタイルは全盛期に戻り、髪や肌の調子もよくなった。

しかし、なんなのだろう。世界に彩りが足りないこの感じは。淡々と生きているこの感じは。そんな疑問がずっと頭の片隅にあった。

最近やっとわかってきた。自分が遠ざけていたのは自分の心そのものだった。ままならぬこの世界で、平常心を保つために、無意識に心を遠くへと放り投げてしまっていたんだと思う。年末年始、私は走りながらも、重度の鬱だった。心が健やかになっていくのと逆行して世界はコロナ禍へと深く深く沈んでいったので、心のありかたはカオスな状態で、どこまでが鬱の余韻でどこまでがコロナなのか。正直まだ整理はついていない。だけど心が遠くにあったということはたしかなことだ。

先月、おさななじみの結婚式があり、自粛生活の末に、10日ほど北海道に帰って旧友たちに会ってきた。毎年のように会っていた友達、大学ぶりに会った友達、ちゃんと遊ぶのは初めての友達。今年1年分くらい人に会った。

人とふれ合う中で少しずつどこか遠くに行っていた心が自分の中へ帰ってきた感覚がした。「あ、生きているんだ。」って自然と実感できた瞬間が何度もあった。

そして気づいた。人と会えないこともそうだけど、自分は心を遠くへと置きざりにしてしまっていたから、健やかでなくなってしまったんじゃないかと。

もう1つ、先日久しぶりにLiveへ行った。生の音楽を通して、演者とコミュニケーションを取っているように心が繋がっているように感じられた場面が何度もあった。音楽も昔から私が自分の心をたぐりよせるために重要なピースの1つだ。

あの空間にいたとき「心がここにある」ということを感じられた。心をたぐりよせていく感覚を得た。この感覚を、忘れずにいたい。

心が分断されて少しずつ感情が希薄になっていく虚無の感覚は、鬱の時に味わった感覚そのものだ。世界中が鬱のような空気の中で、敏感な人であればあるほどそんな空気を受け取って、心に風邪をひいてしまうんだと思う。身をもってそれを強く体感した。

だから心の距離をたぐり寄せる感覚を大事にもっていたい。

目の前のことに集中して、感性を研ぎ澄ましてみる。思いをはせてみる。デジタルの世界から距離をとって、空や草木や水を感じてみる。できるかぎり自分の手でこの地球とつながっている感覚を得てみる。

こんな日々だからこそ、ペースはとても遅いけど、徐々に友達に手紙を書いてみている。実家にも手紙を贈ろう。忙しい日々の中で、わざわざ時間をかけて、生を噛みしめる行為に時間を使うことを選択する。そうやって、自分の心をたぐりよせて生きていこうと思えた。それがここ最近の気づきだ。

noteももう少し書けたらいいな。心が動かないとね、書きたいことも湧いてこないんだ。感性の窓を開放して生きていければいいのにね。自分ひとりの意志だとなかなかむずかしいね。

身体的にも精神的にも生きのびて、また会いましょう。
季節的にもウイルス的にも深刻な、冬がくるから。それぞれの場所から思いをはせながら、春を待って、今をかみしめながら、離れていても思いを伝えあいながら、あるいはただ心の中で大事な人の幸せに祈りをささげながら、ままならぬ日々を、生きていきましょう。


P.S.

最近、毎日豆を挽いて、自分でコーヒーを淹れています。コーヒーも精神衛生の向上に役立っています。
あとね、ミスチルの新曲がめちゃくちゃ良いから、みんなに聴いてほしいな。心に沁みて、心が潤う感覚を得られるよ。それじゃあまたそのうちnote、書きますね。


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