マイナスからの進路探し。〝運命〟を信じて手紙を送った。
ご報告。
2週間の入院生活を経て、このたび〝電撃退院〟しました。
腎臓と肝臓の数値が悪いままなのですが、元気そうな僕の様子を見て許しが出た感じです。この先はステロイドによる治療とカテーテル生活を送っていくことになります。その話はまた今度。
さて、前回はかなりぶちまけてしまいました。
息子がお世話になっていた高校野球部との、度重なる問題。裏切り。
夏休みが終わろうかという時期に、マイナスからの進路探しを余儀なくされるという。さあ、どうしたのものか。
今回は、逆境からミラクルを掴む〝大逆転ストーリー〟です。
母親の死に直面し、メンタルヘルスに大きな問題を抱えてしまった息子。中学1年の夏からは慢性頭痛、意識消失などの発作と付き合いながら野球に励んできました。
その症状が落ち着きだしたのは、高校2年の秋からです。
しかし、ブランクの長さ、病欠の多さは埋め合わせることはできず、最後の夏もメンバー漏れとなってしまいました。
高校生活で公式出場はなし。
高校から匙を投げられた状態。
それでも、息子は言うんです。
「燃えてきた。ここから逆転したら、アツいでしょ」
流石、ジャンプっ子に育てられて男です。僕もあきらめるつもりはありませんでした。
実は以前、息子が通っていたジムのトレーナーさんが、独立リーグのテストを勧めてくれていました。
伝手があるので、話をしてみてくれると。もしかしたら、伸びしろを評価してくれるかもしれないと言います。まずは、そこに縋りつきました。
猶予は長くて3カ月。
そこで取り組んだのは、肉体改造です。
それまで通っていたジムに加え、僕のパーソナルトレーナーさんにも預けることにしました。運動生理学、解剖学の知識を伝えるのが巧い方なので、体も頭も鍛えられると思ったのです。
「僕の時間を息子に譲るので、指導してもらっても大丈夫ですか」
結果、この決断は大々々々正解でした!
関節の可動域、筋肉の柔軟性、正しい体の動かし方、身体感覚、投球フォームの解析もしてくれました。さらにはメンタルのケアまで。
僕たちにとっては知らないことばかりの新鮮な日々。息子の飛躍を心から応援し、できる限りの時間を割いてくれました。本当に、どんな言葉で感謝を伝えればいいのか……。
一方、課題もありました。練習場所の確保です。
本気で投げられる場所、遠投できる場所がない。
欲を言えば、マウンドの傾斜を使って投げたい。
とはいえ、高校のグラウンドには行きたくない。
では、どうするか?
頼ったのは中学時代のチームです。監督さんに相談したところ、練習のない平日の午前中、外野なら使ってもいいと言ってくれました。
練習相手は47歳の僕。正直、効率的ではなかったと思います。しかし、できるだけの努力をしていくしかありませんでした。
さあ、本番。10月末、場所は徳島でした。
この日の受験者は、息子含めて3人。チームの主力たちと全体練習に参加しました。
見ると、周囲の選手たちはみんな体つきが違う! 細くて薄い、うちの子が目立つ目立つ……。
ブルペンを覗くと、えぐい球を投げる投手ばかり。
オリックスのスカウトまで来ているではありませんか!
レベルの高いチームとは聞いていましたが、予想以上。2週間後、ドラフト会議で知ることになるのですが、この徳島インディゴソックス、NPBに6人もの選手を送り出すような強豪だったんです。
そんな中、息子の合否は……、もちろん不合格。
さあ、どうしたものか。
上原浩治さんのように、1年間を勉強に費やして一般受験で大学に入るか。野球から遠ざかってしまうが……。それに、病気の影響で中学時代からろくに授業が受けられていないのに、間に合うのか。どうしよう、どうしよう。
焦りと悩みは尽きませんでした。
それでも、半年ぶりにグラウンドで躍動できたこと、今の精一杯を出せたこと、肩と足は通用しそうなことが確認できたのは大きかったです。
あと、息子との二人旅も楽しかったな。徳島ラーメンを食べたり、近くの観光名所を訪ねたり。
そして、迎えた11月。
また違うリーグの合同トライアウトを受けたものの、そこでも不合格。しかし、一方で僕の頭にはあるアイデアも浮かんでいました。
それは〝天啓〟ともいえる閃き。記憶の中でバラバラになっていたものが、急につながったんです。キーワードは〝25年前の御縁〟!
実は僕、かつてジャーナリストの専門学校に通っていた時期がありました。そのとき、自由課題である野球人に取材させてもらったんです。その方は元プロ選手で、当時は環境に恵まれず、あぶれていた学生たちを教えていました。
息子のような選手にも、理解があるのでは?
その後、プロの世界に戻って指導者に。オリックスとも関りを持っていたので、選手の〝心〟をケアするスタイルであることも知っていました。
その人物が、1年前からある大学のコーチに就任していたことを思い出したのです!
息子に話してみると、運命的なものを感じたようでした。
「25年も前のことだから、向こうは覚えていないと思う。でも、実際に会ったときの人柄は最っ高だった。だからさ、手紙書いてみん?」
もちろん、この時点では細々とした糸のような光明。それでも、試してみる価値はある!
息子は書きました。
病気のこと。これまでの経緯。僕から経歴を聞き、指導を受けたいと思ったこと。無理を承知で、投球を見てもらいたいこと。叶わないのなら、話だけでも聞いてもらいたいこと。球速、遠投、50m走のデータ。
願いを込めて、投函。
しかし、待てど暮らせど連絡は来ません。1週間、2週間……。大学に電話を入れて、手紙の行方を確認してもらいました。
すると、数日後。
息子のスマホに知らない番号からの電話がかかってきたんです。声の主は、待ち焦がれていたその人でした。
「相談に乗るよ。監督にも話してみて、また連絡する」
細々しかった糸がつながった!
そのあと息子のもとには何度かの電話があり、遂に練習参加の許可が下りたのです。
さらに、うれしいことは重なります。
息子が僕のことを話したところ、なんと25年前に取材されたことを覚えているというんです。こんな光栄なことがあるでしょうか!
練習参加の日は、トライアウトと全く違う雰囲気でした。話の方向が、入部前提で進んでいくんですよ。あまりにとんとん拍子で、オロオロしてしまうくらい。手紙を書かせてみて、動いてみて本当によかった!
あの細々しく思えた糸は、実は縁結びの〝組紐〟だったのですね。
まあ、高校サイドのミスで受験に必要な書類が期日まで揃わないとかいう、信じられないアクシデントはありましたがね……😩
なにはともあれ。
息子は春から大学生です。この家から遠く離れた地へ巣立ち、念願だった野球漬けの生活を送る予定です。
↑ こちら、前編になります。今回の記事を読んで、よりカタルシスを感じたい方はぜひ!
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