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建築とは~タイの建築家久米さんからの学び~

他学科からみた建築学科、

ふー。みなさま、お疲れさまです。
最近、趣味の建築雑誌集めが転じて建築学科の研究室に自由に出入りさせてもらっています。研究室に潜り込んでみると、建築学という学問の性質が自分の分子生物学という学問と根本的にスタンスが異なることをひしひしと感じます。(20:00に行っても誰かはいて自分もテキットーに作業手伝ったり勉強させてもらっている。一人暮らしの身には居場所が増えて嬉しい。)

それはさておき、今日は研究室主催の聴講会の感想と考察を綴っておこうと思います。タイのバンコクで活動されてる建築家の久米さんが来てくれました。ちゃんと建築家の話を聞くのは3回目くらいなので話が理解できたか怪しいです。

ゲスト:久米さん(Bangkok Tokyo Architecture)

久米さんは公共建築を目標に、現在は個人宅やオープンスペースの活用のための仮説建築を手がけてました。開かれた建築が念頭にあるようで、聴講会のホストの西田先生の活動とも近い方でした。

考察①~”建築”の使い方~

今回の話を聞いて思ったキーワードは”建築”と”フレーム(建物の抽象性)”です。

まず、「建築」と似た言葉なんですが、「建物」といって想像するものは日本でゆう家とか図書館とかビル、工場とかがあたると思います。そこから、「建築物」ときくと建物あって「設計され意図的に作られた」というニュアンスを感じます。建築という単語には多分に意志成分がこもっていて、学生と話して良く聞く「こういう建築がしたい」「どんな建築が好き?」といった文脈からは建物のビジュアル的な特異性や設計者の価値観を含めて建物を捉えているように感じます。ここまでは一般的な使い分けだと思います。

なんで自分が「建築」という単語にこだわっているかというと、久米さんのお話の中で、広場に設置された数本の柱の骨組みに屋根を張っただけの”何か”とかも「建築」と呼ぶんです。そこで自分は「建築とは?」って違和感を感じて言葉の使い方を探りました。

まず、違和感の正体は「建築」が建物としての構成よりも機能に重心がよった言葉であったことです。特に近年の路上や広場などの公共のスペースを活用して、イベントや休憩場所を提供する活動ではベンチやらただの木材やら建物とはほど遠い規模感、クオリティの構造物が配置されたりします。こうした構造物は、「建築物」とはよばないかも知れませんが「建築」と呼びうるし携わっている人は建築家だったりします。

だから、空間に人の居場所を作り出す行為やその為の物質的な取り組みのことが「建築」である、という風に自分は解釈しています。

逆に、公共空間の活用において構造物の製作や配置を伴わず、仮設テントなどの活用により人との交流のみを促進する活動は建築家は行わない。それは自治体にできることと変わらないからだろう。

ここから、「建築」とはあくまでも構造物に腰を残した上でどこまで柔軟に発想できるのかという挑戦を続ける活動であり、建築家という人種は「構造物」というツールにどこまで自分の意志を反映できるか、使用者との間にどんな関係が生まれるのかを考える人たちであると自分は感じています。

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