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色のない日

さて、夏である。梅雨もようやく明けたのだという。
なんだかいろいろが、じっとりと湿るみたいに変わっていった7月だった。

7月。この1か月のわたしは、駆け抜けたなあという印象だ。
定職に就いていた頃よりも稼働時間は短いものの、毎日何かしらの仕事をしていて、Googleカレンダーにはいつも何かしらの色がついている。

今日は久々の無色。
この前に無色だったのは8日、でも日記を見ると在宅ワークをゴリゴリに消化していて、全然休んでいなかった。

精神的にはすごく楽しんでおり、毎日楽しく暮らしている。
が、身体的にはそこそこ疲れていたようで、今日はほぼ1日中泥のように眠っていた。さっき起きてお茶漬け食べました、もう元気です。


そうして気付けば1か月もnoteを書いていなかった。
その間も文章自体は書いていて、つまりライターの仕事はしていた。
自分の気持ちや思い、暮らしの色なんかは乗せない文章。

noteではいつもエッセイや日記のような極めて個人的なものをつらつらと書いているが、仕事では正反対である。

大衆に向けて、いかに読みやすく・読まれやすく書くか。
言葉の誤用に気を付けて、根拠のない情報は書かないように。
妄想空想私情だらけのnoteとは大違い。

もちろん、これはこれで楽しい。
いわゆるクライアントワークで、わたしは黒子になっていた。

仕事の文章を読んだ友人からは「ちゃんとWebライターの文章って感じだ!」と言ってもらえた。
これはたぶん誇っていいこと。ありがとう、Webライターです。


やっぱり、たまには自分の色しかない文章も書くべきなのだろう。
たった1か月で書き方が分からなくなってきている。
単語の選び方、言葉尻、句読点。わたしってどんなのだったっけ?

あれだけ毎日文章には触れているのに。
自分のパソコンで、自分の手で、自分の目と耳と頭を使って1,500字、3,000字、5,000字、打ち込んでいるのに。

思うままに書いていたはずなのに、今も同じように思うままを書いているはずなのに、どこか気持ち悪い。

最近、同じくライター業をしている友人が「感性ってなんだ」「自分の言葉って何?」と悩んでいるのを目にするけれど、似た感覚なのかもしれない。

ロジックで組み立て続けていると、「正解」以外の答えが見えなくなる。
大衆にばかり顔を向けていると、自分の顔を忘れてしまう。

生活を守るだけじゃなく、自分自身の色も守っていきたい。


8月が始まる。短くて、ひとっ跳びするような夏になるのだと思う。

じっとりと湿った雲は、梅雨といっしょにどこかへ消えていくのだろう。
深夜、扇風機の風に吹かれながら聴くサカナクションは、やけに涼しい。

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