人見知りよ、さようなら

「人見知り」という言葉を使わないようにしている。以前は、自己紹介をする場面などで名刺代わりに使っていた。学校に入学した時も、クラス替えの時も、部活に入った時も、委員会に入った時も、アルバイトの初日も、最初の挨拶をするときは必ず

「人見知りですが、段々と慣れていきますのでよろしくお願いします」と言っていた。 

自分が対人コミュニケーションに難があるタイプであることは明らかだ。親しくない人と話すと脂汗をだらだらかくし、会社などで向かいの席に座っている人の視線が気になって毎日のようにお腹を壊していた。 

満員電車がいちばん苦手で、膝がガクガク震えて、立っているのがやっとだった。ひどいときはブラックアウトしていた。視界が真っ黒になるのだ。貧血なのか何なのか分からないけれど、電車に乗ったときだけ私はブラックアウト癖が出る。気絶するわけではないので、手摺りを両手でがっしりとホールドして、視界が戻るのをひたすら待つ。 

不思議なもので、最寄駅近くになるといつも症状が軽くなった。ふらふらと駅のベンチに座り、スマホの光が瞳にしっかり届くのを待ってから立ち上がり帰路についた。
その頃にはどちらかと言うと楽しい気分になっていた。もう今日は満員電車に乗らなくていいし、車内で倒れて周りに迷惑をかける心配もない。病院の先生に口酸っぱく言われた「成功体験を重ねることで自信になる」というのはこれのことか、と思った。超低レベルの成功だけど。 

さておき、私が「人見知り」と自分で言わなくなったのは、ネットで何気なく【人見知り 語源】と検索したことがきっかけだった。 

「人」を「見て知る」というのはどういう意味なのだろう?もしかしたら、人をちらりと見ただけで性質やその他を理解できる、ものすごい能力が語源なのでは、と期待もした。儚い期待だった。
私の調べた記事にはこう書かれていた。 

赤ちゃんが成長していく過程で、母親を母親として認識し、それ以外の人を他人と認識する現象のことを"人見知り"と言ったのが語源と言われている。 


おんぎゃ? 

そう、人見知りは赤ちゃんにだけ与えられた特権だったのだ。
学生時代ならまだしも、酒を飲んで酔っ払うような齢になった人は「人見知り」をすることはもはや許されないのだ。


#エッセイ

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