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オールナイトニッポンって一晩中やってるんだと思ってた

深夜ラジオの存在を知ったのは多分高校生の時だと思う。当時はradikoなんてものはなくて、ラジカセで周波数をニッポン放送かTBSに合わせて聴いていた。

でも、高校生の頃のわたしはそれほどラジオに熱中しなかった。わたしは商業系の高校で簿記部に所属していて、高校3年の時には簿記の大会の団体戦で全国3位という成績を残している。

「簿記の大会?」「団体戦?」

なんですか?それは何を競うの?とよく聞かれるのだが、昔のことすぎてわたしも忘れてしまった。
とにかく全国から集った"簿記の強いヤツのいる学校"からそれぞれ3名?(4名だったかもしれない)が選出され、せーので問題を解き、その得点を競うのだ。

試験官役の先生が「よーいスタート!」と言うとみんなの電卓を叩く音と、ペンを走らせる音だけが会場に鳴り響く。簿記の大会は時間との戦いでもあるので、みんな電卓を叩くのがめちゃくちゃ速い。
もう、めちゃくちゃに速いのだ。

電卓を右手で叩くか左手で叩くかで流派が分かれる。(わたしが右利きなので右利き前提で話を進めます)電卓を叩くときにペンをいちいち机に置いているとタイムロスに繋がるので、ペンを持ったまま右手で電卓を叩くか、左手で電卓を叩くかのどちらかになる。

みんな最初は電卓を利き手で操作するので左手で速く叩くためにはそれなりの練習期間が要る。
わたしは左手タイプだった。地頭が良くないわたしは問題を解くのに他の人に比べて多く時間がかかってしまうので、とにかく速く電卓を叩くことに集中する必要があった。右手と左手が同じスピードで電卓を叩けるのであれば、ペンを持っている右手より自由な左手の方が有利なはずだ、というのが当時のわたしの考えだった。左手ならば文字を書きながら電卓を叩くこともできる。
(当然だがブラインドタッチだ。大会に電卓のボタンを見ながら叩いてるやつなんて一人もいない。そんなやつがいたらみんな爆笑しちゃうと思う)

今になるとその必死さが少し面白い。「俺は地頭が悪い」と負けを認めるところからスタートしたんだね、スナノくん。自己分析能力◎
そんなわけで、高校時代は電卓を叩くのにとても忙しく、ラジオを聴こうという気にならなかった。



◻︎

春日さんにおける伊集院さんや、星野源さんにおけるコサキンのお二人のような存在は、多感な学生時代にその魅力に触れたからこそ産まれたリスペクトだと思うので、そういう意味ではわたしは勿体無いことをした。


深夜ラジオをがっつり聴きはじめたのは20歳くらいからだったと思う。
人の話を聞くのが好きな反面、人と会うことに普通の人より多く体力を消費してしまう人間なので、ラジオで好きな人たちの会話を聴けるのが嬉しかった。

最初はバナナムーンのPodcastをずっと聴いていた。本編がどんな番組か知らずにPodcastだけを聴いていたのだ。当時のバナナムーンのPodcastは異常に長くて、2時間ラジオの生放送をやったあとに1時間半くらい喋ってくれたことが何回もあった。今考えるとなんとも贅沢な話だ。
オークラさんのデブドリンクもPodcastが初出しだった気がする。
日村さんの人間性についての話だったり今後のバナナマンの展望だったり、真剣なトーンで話してくれることが多く、毎回が濃密だった。
多分わたしはPodcastを全て聴き終わってしまって、「そういえば本編聴いたことないな」と思いやっとradikoをインストールして『バナナマンのバナナムーンGOLD』を聴いたのだと思う。

Podcastの落ち着いた雰囲気はどこへやら、わたしはずっと爆笑しながら聴いていた。
"あれ?ラジオってもっと落ち着いたメディアじゃないの?"と驚いたのを覚えている。他のラジオを聴いてみたらみんなそれなりに落ち着いていて、"なんだバナナマンが異常なだけか"と思ったが、それもなんだか頼もしくてもっとバナナマンのことが好きになった。
日村さんはしょっちゅう裸になるし、当時の設楽さんは今よりドSな一面を見せてくれることが多く、何かで揉めると何故か最終的にオークラさんを設楽さんがビンタして終わる、という流れがあってそれが大好きだった。
オークラさんは当時からもう充分凄い人だったのに、めちゃくちゃされてたなぁ。それは今も変わらないか。


◻︎


一時に比べると聴く番組量は減ったし、不眠症対策のためにリアルタイムで聴くことは滅多になくなったが、ラジオは今もわたしを救ってくれている。

もしこの世にラジオがなかったら、と想像するとヒヤッとする。とても生きていられないと思う。ラジオなしの人生はハードモードすぎる。
そうは思いませんか?


#エッセイ
#バナナマンムーンGOLD
#bananamoon
#簿記

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