ある朝

「世を映す鏡」と僕が勝手に呼んでいる雨が止んでも消えない水溜りにうっかり右足を落としてしまったので、会社に「午後から行きます」と電話をした。上司は「そう」と言ったあと、少し間を置いてから「体調?」と聞いてきた。僕はもごもごしながら「そうです」と返事した。スマホの通話終了の画面を見て、少しだけ切なくなる。

パン屋でくるみパンと珈琲を買って公園のベンチに腰を下ろした。1つのブランコに女の子が2人で乗っている。“危ないよ”と心の中でだけ言った。
小学生の頃にブランコで怪我をしたブラジル人の女の子のことを思い出した。右腕に真新しいギブスをつけた彼女は、教卓の前に立たされてクラスメイトに謝罪した。でも、ブランコで何が起きて怪我に至ったのかをクラスの誰も知らなかった。とても大人しい子で、僕はそれまでほとんど声も聞いたことがなかった。「ごめんなさい」と言いながら彼女はしくしく泣いた。先生はブランコの遊び方についてもっともらしい注意を述べてから彼女を席に戻した。彼女はそれからブランコに近寄らなくなった。

僕はくるみパンをちぎって食べる。2人の女の子はきゃっきゃと笑いながら器用にブランコを漕いでいる。うまいもんだなぁ、と思っていたら、くるみパンを地面に落とした。「あ」と言ったのは2人の女の子の方だった。笑われるかと思ったが、意外にも神妙な面持ちでこちらを見ている。「大丈夫、お構いなく」という気持ちで少しだけ笑って見せてからくるみパンを拾い上げる。女の子の反応を確かめる前に僕は公園を立ち去る。

結局、定時から30分遅れで会社に着いた。僕の人生は他より少し遅れている。もたついている間に失ってしまう。パソコンの電源を入れてからカバンに入った砂まみれのくるみパンを空々しく眺めていると、上司が僕を見つけて「あれ、早いんだね」と言った。僕はもごもごしながら「早いですか」と応えた。


この音楽を聴いて詩を書きました

#詩 #Poet

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?