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音楽の持つ“機能”について講釈を垂れてみたい


「君と私は音楽の趣味が違う」といった表現は、少し解像度が低いような気がする。
単純に、好む音楽が違うということなのだろうが、そこにはその人が、音楽の持つあらゆる機能のうち、どの機能を主要な価値として捉えているかが現れるのではないだろうか。

[リスナー⇄社会]の音楽 ~シーンメイキングの装置として~

〈共同体の象徴としての機能〉

音楽の機能とは何か。

この問いはそのまま「音楽とは何か」「我々はなぜ音楽を聴く/演奏するのか」という問いに置き換えてもらっても差し支えない。


音楽の機能として思いつくものはさまざまあるが、たとえば、〈共同体の象徴としての機能〉。

わかりやすい例を挙げれば、国歌や校歌などはその典型だろう。

共同体の象徴としての音楽、言い換えれば、〈コミュニティが共有するストーリーを象徴する音楽〉、(その音楽を聞いていれば/歌っていればそのコミュニティの一員であることを自ら意識すると同時に他者に顕示することができるという性格を持つ音楽、〈コミュニティの共通言語としての音楽〉と表現することもできそうだ)は、国歌や校歌に留まるものではない。

具体例を出して考えてみる。

たとえば、おしゃれなクラブでおしゃれなDJによって流されるダンスミュージックなどは共同体の象徴としての機能を多分に背負った音楽であると言えるだろう。

その場にいる人たちが音楽で体を揺らすことで、一つの空間を醸成し、えも言われぬ一体感を生み出す。

もっと俗な言い方をすれば、「なんか俺たちイケてる感じじゃね?」みたいな、空気を生み出す。

その空間に所属する人間により、そこには緩い共同体が生まれ、彼らは「なんかイケてる人」の一員になることができる。

あらゆる音楽が、共同体の象徴としての機能を背負う可能性がある。

あらゆる音楽は常に何かしらの共同体の象徴としての機能を担っていると言っても過言ではないと思う。

音楽の起源は諸説あるのだろうが、個人的には音楽は祝祭や儀式などにおいて、共同体の象徴として発生したのではないだろうかなどと想像している。



ところで、音楽が特定の共同体の象徴としての機能を果たすためには、複数人がその音楽を知っているという状況が必要だ。

自分一人だけがその音楽をどれだけ愛していたとしても、それを他者と共有できなければ、その音楽が共同体の象徴として機能することはない。

たとえば、完璧な言語を開発したとして、それが複数人の間で共有され、使われることがなければ、その言語が全く機能を果たさないということと同じだ。

このような性格は、経済学において使われる「公共財」という概念とよく似ているのではないかと思う。

公共財(こうきょうざい、: public good)は、経済学の用語であり、非競合性あるいは非排除性の少なくとも一方を有するとして定義される。対語として、競合性と排除性とを有する私的財がある。

競合性とは、消費者(利用者)たちによるその財の消費が増えるにつれ、追加的な費用なしでは、次第に財の便益(質・量など)が保たれない性質を指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1%E8%B2%A1

利用者が増えるにつれて便益が減少する私的財とは逆に、公共財とは、利用者が増えれば増えるほど、一人ひとりの享受する便益も増えるというものだ。


先ほどあげた言語の例もそうだが、もっとわかりやすい例を挙げれば、TwitterなどのSNSなどもそうだ。

仮に私がTwitter社を買い占め、Twitterを私一人だけのものにし、私以外の利用者を排除したとする。

私は一人で呟き続けるが、誰も私のツイートを見る人はいないし、私も誰のツイートを見ることもできない。

それでは本来Twitterから得ることのできる喜びを享受することができない。
利用者が減ることで、享受できる便益が減るということはこういうことだ。


公共財とは、このような特徴を持つ財のことを指す(のだと思う。詳しくはよくわからないけど、この記事ではそういうことにさせてください)。

音楽も、〈共同体の象徴としての機能〉という側面において、利用者が増えるほど便益が高まるという公共財的性格を有していると言えそうだ。


〈シーンメイキング機能〉

ここまで、〈共同体の象徴としての音楽〉という言葉を使ってきたが、社会学者の宮台真司は、〈シーンメイキング機能〉という言葉を使っている。

〈シーンメイキング機能〉とは、文字どおり、コミュニケーションのシーン(場)を演出する機能をいう。簡単にいえば、都会っぽい雰囲気・おしゃれっぽい雰囲気・大人っぽい雰囲気を醸し出すためのツールとして使えるかどうかという側面にかかわる。車で・リゾートで・バーで・レストランで・トレンディースポットで、他者との付き合いの場面を彩るために/特定の自己イメージの提示のために、音楽が用いられることがよくある。これらの音楽は、「現実に享受される場所」に結びつく形で〈シーンメイキング〉な享受のされ方をしている。

『増補サブカルチャー神話解体』48―49頁

上記に引用した文章を読むと、宮台の言う〈シーンメイキング機能〉は、私が最初に提示した〈共同体の象徴としての機能〉よりさらに包括的な概念であるということがわかる。

私が〈共同体の象徴としての機能〉と称した機能も、いわば、「この音楽を聴いている私たちは仲間である」というような"シーン"を提供する機能と言い換えることができ、その意味では、〈シーンメイキング機能〉の下位概念であると言えそうだ。

他の著書を引いてみよう。

岸野雄一らによる『シティポップとは何か』では、シティポップの主要な機能として、この〈シーンメイキング機能〉が挙げられている。

ここでもいくつか抜粋してみよう。

(シティポップの歌詞表現においては)歌手自身や聴き手と感情レベルで同化することなく、ひとつの情景演出装置として役割を与えられている。そして、それらのイメージ喚起を通じて、聴き手を取り囲むムードが醸成、あるいは刷新されていく。

『シティポップとは何か』岸野雄一, モーリッツ・ソメ, 等

言葉は極限までバックグラウンド化され漂白されているがゆえ、かえって広く共有可能なイメージを発散する。

『シティポップとは何か』岸野雄一, モーリッツ・ソメ, 等

各々が赴くスポットの風景は、自らが参加する映像作品の舞台装置のように立ち上がり、音楽によってその「シーン」が形成される。

『シティポップとは何か』岸野雄一, モーリッツ・ソメ, 等

このように、シティポップをはじめとして、音楽は時にシーンメイキングの装置としての機能を果たすことがある。

音楽が演出する"シーン"はさまざまであるが、大別すると、

〈他者との同一化〉を目的とするシーン(共同体の象徴としての機能もここに含まれる)

〈他者との差別化〉を目的とするシーン

の二つに分けることができそうだ。

ここまでは前者の〈他者との同一化〉を図るシーンメイキングの機能に焦点を絞って論じてきたが、ここからは後者の〈他者との差別化〉を図るシーンメイキングの機能、“顕示的機能”について考えていきたい。


〈顕示的機能〉

上記で引用した『増補サブカルチャー神話解体』の一節の中に、「特定の自己イメージの提示のために、音楽が用いられることがよくある。」との文言があるが、これがまさに音楽の顕示的機能だ。

一方の、『シティポップとは何か』では、音楽の顕示的機能についてどのように見られているのか。

引用しながらみていこう。

シティポップの黄金期である1980年代前半と、右で述べたような経済・社会状況が深化していった時代は、まさしくピタリと符合する。購買力を獲得した人々が様々なアイテムを求め、広告メディアもそれと呼応するように、カタログ的な商品情報を洗練させ、「モノを買う」という行為そのものが、当人にとってのアイデンティティ形成に奉仕する。いわゆる顕示的消費の一般化ともいえそうなこうした趨勢は、ファッションやライフスタイル雑貨等におけるブランド志向を強化したが、同じくソフト/コンテンツの消費においても同様の志向を浸透させていった

『シティポップとは何か』岸野雄一, モーリッツ・ソメ, 等


顕示的消費」とは、経済学者/社会学者のソースティン・ヴェブレンが『有閑階級の理論』で提唱した概念で、贅沢なブランド品などを、生活上の必要からではなく社会的地位の誇示のために購入することを指す用語だ。


80年代以降の消費社会においては、音楽を含むソフト/コンテンツさえも「顕示的消費」の対象に含まれるようになったという。

若者たちが社会的なアイデンティティを自ら紡ぐことが困難になった時代に、消費という行為を通じて自我を形作っていく道筋/スタイルが示されたこと。そのスタイルをカルチャーの側からきらびやかに提示し、しなやかな自己像、柔らかい個人主義の成立を促すという機能を、シティポップスが担っていたとはいえないだろうか。

『シティポップとは何か』岸野雄一, モーリッツ・ソメ, 等

ここでは劇作家/評論家の山崎正和の『柔らかい個人主義の誕生』で論じられる「柔らかい個人主義」という概念を用いて、シティポップの顕示的消費を解釈している。

産業化が完成し、余暇が発生し、様々な社会制度が流動化し価値観が多様化する80年代以降の時代は、 自己を生産関係の主体として能動的に規定するかつての「硬い個人主義」を超えた新しい個人主義、「柔らかい個人主義」の時代なのだという。

生産する自我=硬い個人主義、消費する自我=柔らかい個人主義という図式だ。


本書ではシティポップに的を絞って論じられているが、音楽が顕示的機能を持つことは何もシティポップに限ったことではない。

あらゆる音楽が場面によっては顕示的機能を背負うことがあるだろう。

ところで、音楽に限らず、顕示的消費は往々にして批判の対象になることが多い。

顕示的な消費態度があまりにあからさまな場合は、「ミーハー」「にわか」「ポーザー」「アクセサリー」「ファッション」など、ネガティブに形容される。

しかし、自己の規定(「私とは何か」という問いに対する回答)には、他者からの眼差しが必須だ。

ならば、「柔らかい個人主義」の実現の下、顕示的消費はむしろある程度は肯定的に捉えられるべきなのではないだろうかなどとも思う。

音楽がシーンメイキングの装置として演出する"シーン"のうち、一方の〈他者との同一化〉を目的とする"シーン"は、既に触れた通り、その音楽の利用者が増えれば増えるほど、一人ひとりの享受する便益も増えるという純粋な公共財であるといえる。

しかし、もう一方の〈他者との差別化〉を目的とする"シーン"は、利用者が増えれば増えるほど、一人ひとりの享受する便益も増えるという単純な公共財ではなさそうだ。

顕示的消費の対象としての音楽は、あまりに利用者が多い場合、他者との差別化という本来の目的が達成できない

かといって、利用者が少なければ少ないほど享受する便益が増える純粋な私的財かというと、そうでもない。

自分しかその音楽を知らなければ、その音楽のリスナーであるということがアクセサリーとして/ブランドとして/ファッションとして機能しないからだ。

つまり、顕示的消費の対象としての音楽というのは、公共財とも私的財とも取れない絶妙な立ち位置の財であることがわかる。


前半まとめ

ここまで、手探りで音楽の機能について考えてきたが、音楽の主要な機能として〈シーンメイキング機能〉があるということがわかった。

そして、音楽が演出するシーンは、大別すると

・〈他者との同一化〉を目的とするシーン
・〈他者との差別化〉を目的とするシーン

の二つに分けられそうであるということがわかった。

そして、前者の〈他者との同一化〉を目的とするシーンを演出するための音楽は、利用者が増えれば増えるほど、一人ひとりの享受する便益も増えるという純粋な公共財的な音楽である。

しかし一方で、後者の〈他者との差別化〉を目的とするシーンを演出するための音楽は、利用者が多すぎても少なすぎてもいけない、という種類の財でありそうだ。

〈他者との同一化〉にせよ、〈他者との差別化〉にせよ、どちらもその究極的な目的は、「私とは何か」という問いである。

自己の認識、アイデンティティの確立の実現が究極的な目的としてあり、そのために他者との関係性の中で同一化を図ったり差別化を図ったりする

そのためのツールが、シーンメイキングの装置としての音楽だ。


リスナー⇄音楽家の音楽

〈他者との同一化〉を目的とする音楽(共同体象徴機能)も〈他者との差別化〉を目的とする音楽(顕示的機能)も、シーンメイキングの装置としての音楽を考えたとき、いずれにしてもリスナーの関心の対象はもっぱら社会、つまり自分以外のリスナーにある。

つまり、社会とリスナーの間に音楽があり、リスナーは音楽を通して社会と距離を取ったり(差別化)、距離を縮めたり(同一化)する、というのがシーンメイキング装置としての音楽の役割なのだ。

ここで私が言いたいのは、シーンメイキング装置としての音楽においては、リスナーと音楽家との関係性は極めて希薄であるということだ。


これまで論じてきた音楽は、[リスナ⇄社会]を主眼としてきたが、ここからは[リスナー⇄音楽家]を主眼とする音楽について論じていきたい。

音楽表現への全人格的な没入による関係性(「これって、わたし/僕と同じ」「彼/彼女だけがわたし/僕をわかってくれる」)がコミュニケーションの最重要な部分を構成する音楽がそれだ。

音楽家とリスナーの関係性が強固であり、その距離感が近い(少なくともそう感じさせられる)音楽、音楽家とリスナーの間に共有される感覚や感性があり、「この曲は私の曲だ」と思ってしまうような音楽。

リスナーの思考に寄り添うこれらの音楽は、シーンメイキング装置としての音楽とは機能が異なり、リスナーの精神を支えたり、リスナーの人格により直接的に働きかけるという機能を持つ

リスナーのアイデンティティ形成に、より直接的に関与するこのような音楽は、利用者が増えれば増えるほどその便益が減少してしまう傾向がある

なぜなら、それは「私の音楽」だからだ。

このような側面が、音楽の"私的財"的側面であると言えそうだ。


どの音楽が"私的財的音楽"となるかは、人によって大きく異なるだろうから、普遍的な例を出すことは難しい。

そこで、ここでは私にとっての"私的財的音楽"を例示してみようと思う。

真っ先に思いつくのはandymori、ハヌマーン、銀杏BOYZなどだ。

彼らの歌詞は泥臭く、時に醜い。

しかし、だからこそ、自分と重ね合わせることができ、そこに音楽家⇄リスナー間の閉じられたコミュニケーションが成立する。

もちろん、あらゆる音楽は時代や状況によって強調される機能が絶えず移り変わり、ある場面においては私的財的な性格の強い音楽が、別に場面においては公共財的な性格を強力に帯びることも往々にしてある

とはいえ、公共財的機能を強く帯びている音楽と、私的財的機能を強く帯びている音楽、という区分はあると思う。

例えば、上記に述べた通り、泥臭く醜い表現を特徴とする歌詞をもつ音楽は、〈他者との同一化〉を目的とした"シーン"を醸成するのに不向きであることが多い一方で、リスナーの心に寄り添う上では非常に有効であるため、そのような音楽は私的財的機能を強く帯びている音楽と言えそうだ。

また、私的財的機能を高める上で、演奏のクオリティーや楽曲としての複雑性はそれほど重要な要素ではない。

拙い演奏のスリーコードの楽曲であったとしても、それがリスナーの心情と合致すれば十分に機能する。

一方で、音楽をシーンメイキングの装置として捉え、公共財的に考えるとき、演奏や楽曲のクオリティーは非常に重要なファクターとなる。

よって、公共財的機能を強く帯びている音楽の特徴の一つとして、楽曲のクオリティが高いことがあげられるかもしれない。


また、その音楽が公共財的性格を強く帯びているか、私的財的性格を強く帯びているかによって、商業的に成功するか否かという問題にも大きく影響を与えることが考えられる。

公共財的機能の強い音楽は、その性格上、人と共有することで自らの得られる便益が増大するで、消費者(リスナー)に対して口コミのインセンティブが強く働く。

つまり、公共財的性格の強い音楽は、広まりやすい。
結果、商業的な成功を得やすい。

一方、私的財的性格の強い音楽は、人と共有してしまうと自らの得られる便益が減少してしまうので、口コミのインセンティブが働きにくい。

結果、広まりにくく、商業的な成功を得難い。

商業的には大きな成功を収めていなくても、一部のファンたちの間で熱狂的に支持されるような音楽が一定数ある。
「アングラ」と称される音楽家によるこのような音楽は、私的財的性格を強く帯びている傾向にあるのではないかと仮説を立てることもできそうだ。


まとめ

ここまでの私の主張をまとめると以下のようになる。

音楽には[リスナー⇄社会]間のコミュニケーションツールとしての機能と、[リスナー⇄音楽家]間のコミュニケーションツールとしての機能がある。

前者の機能は、社会学者宮台真司の言葉を借りると〈シーンメイキング機能〉ということもできる。

[リスナー⇄社会]間のコミュニケーションツールとしての音楽は、社会との関係性の中で自己を規定することに寄与する。

一方、[リスナー⇄音楽家]間のコミュニケーションツールとしての音楽は、自己をより直接的に規定することに寄与する。

前者の[リスナー⇄社会]間のコミュニケーションツールとしての音楽(=シーンメイキング装置としての音楽)はさらに二つに分かれる。

一つは、他者との同一化を目的とし、もう一つは他者との差別化を目的とする。

そして、そこからさらに導かれる仮説として、商業的成功のしやすさ/しにくさにも触れた。


今回の記事の出発点に立ち返ろう。

「君と私は音楽の趣味が違う」という表現はの意味するところは、突き詰めると音楽のどの機能を主要な価値として捉えているかの違いなのかもしれない。

私個人的には、これまでは[リスナー⇄音楽家]の閉じたコミュニケーションツールとしての音楽に触れることが多かった。
一方で、音楽をシーンメイキングの装置として使うのはあまり得意ではないと思う。

私にとってandymoriの音楽は[リスナー⇄音楽家]の閉じたコミュニケーションの機能を担う音楽であるが、君にとって彼らは君の所属する共同体の象徴的な存在なのかもしれないし、はたまた顕示的消費の対象なのかもしれない。

音楽の趣味が違うとか、音楽の聴き方が違うとか、そういう違和感の根源は、音楽の機能のうちどの側面を価値として捉えているかの違いなのかもしれない。




(補足)麻薬としての音楽

今回の記事では、音楽の機能についてなるべく客観的に考察してみようと試みた。結果、リスナー⇄社会のコミュニケーションツールとしての音楽とリスナー⇄音楽家のコミュニケーションツールとしての音楽の二つに大別するという些かラディカルとも思える結論に至った。

この結論にはある程度納得感があり、思考が整理された感じもする。
しかし、自らの実感に立ち返ってみると、音楽から享受できる快楽って、それだけじゃないよなという感じがしてしまう。
今回の考え方をもとにすることで、私がandymoriを聞く理由や山下達郎を聞く理由は説明できる。
しかし、cetowを聞く理由やtoeを聞く理由は、今回の考察だけではうまく説明できないような気がする。
cetowやtoeに限らずに、あらゆる音楽の持っている力(機能)ではあると思うのだが、特に彼らの音楽は、聞くだけで無条件に気分が上がって体を思いっきり動かしたくなってしまう。そのような麻薬に似た機能が音楽にはあるような気がする。
先ほどのマインドマップに反映させるとすれば、こうなりそうだ。



そんな麻薬的機能の根源も、辿っていけば、コミュニケーションツールとして音楽が有益だったことによって人間の本能に刻み込まれたということに行き着くのかもしれないなと思う。知らんけど。



(最後まで読んでくれてありがとうございました。)


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