思い出すことなど(1〜10)

Webマガジンに「思い出すことなど」と題して連載している翻訳にまつわる思い出話ばかりをまとめてみました(第1回から第10回)。結構、長いこと生きているので、書きたいことがたくさんありますねえ。よろしければ。軽い気持ちでお楽しみください。

第1回
 翻訳の仕事をするまでの間には、当たり前だが、色々な人に色々なことを学んできた。その中で、まず思い出すのは、高校の時の英語の先生だ。松井先生。フルネームは思い出せない。色白で小太りな人で、その高校(大阪の私立だ)のOB。「お前ら、こんな男子校で暗い青春送ってるんやから、せめて浪人せんと大学行けるようがんばれよ」というのが口癖だった。
 先生は授業でよく「英語は名詞的、日本語は動詞的な言語やから」と言っていた。その時はふーん、と思ったくらいであまりよくわからなかったのだが、翻訳の仕事を始めると、頻繁にこの言葉を思い出すようになった。翻訳学校の授業などでも私自身が繰り返しこの話をするようになった。
 名詞的、名詞が重要ということは、同時に名詞と結びつきやすい形容詞も重要ということだ。これが日本語との大きな違いを生んでいると思う。
 日本語において、形容詞は、どちらかと言えば「悪者」の言葉だと思う。悪者は言い過ぎだが、使い方に気をつけないと、悪文ができる原因になりやすいのは確かだろう。なぜか。形容詞はまず「抽象的」な言葉だからだ。抽象的というのは、「曖昧」ということでもある。決まった意味がない。使う人がどうにでも意味を与えられるし、受け取る側もかなり勝手に意味を解釈できてしまう。
 たとえば、「美しい」という言葉。何を、どういうものを「美しい」とするかは、人によって、状況によって異なるだろう。だから単に「美しい」と書いただけでは、何も言っていないに等しい。美しいという言葉を使うにしても、何が、どう美しいのか、書き手と読み手の間である程度、合意がないと意味は伝わらないだろう。書き手と読み手がなるべく同じものを見ている状態にしなくてはいけない。・・・というようなことは松井先生は言わなかったけれど、先生の言葉がきっかけでわかるようになった。とても感謝している。

第2回
 生まれてはじめて翻訳というものをしたのは、小学生の時。5年生か6年生か。なぜかうちに英語の絵本が二冊あり、そして商社マンだった叔父の名前が入った古い(その時点で、もう古かった)英和辞典があった。確かコンサイスだ、今、思うと。興味を惹かれ、ページを開くと、絵本に少し書き込みがあった。どうも、訳そうとしたらしい。誰の字だったのかは記憶が定かでない。叔父か、母か。とにかく、誰かがその本を訳そうとして、途中でやめていた。見ているうちに、心の奥に小さな炎が燃えているのに気づいた。「続きをやってみたい…」なぜかそう思っていたのだ。
 小学生であり、帰国子女でもないから、英語といっても、荒井注の「ジス・イズ・ア・ペン」とか、志村けんの「あーみーまー(これは英語ではない)」くらいしかわからない。ネタが古くて申し訳ないが、若い人はお父さん、お母さんにきいてほしい。
 ともかく、英語なんてまったく知らないのに、なぜ、訳したいと思ったかは謎だ。幸い、手元に辞書はある。調べれば、時間はかかってもいつかは終わるだろうと思った。
 しかし、これを読んでいる人なら全員予想できるとおり、結局、挫折した。今、思うと、「文法」を知らなかったのが致命的だった。ただ英語の文法を勉強していないというだけでなく、言語に文法というものがあることをまるで認識していなかった。単語の意味が全部わかれば、つなぎ合わせてどうにか文の意味がわかるだろうと思っていただけだった。
 つまずいたのが、would、could、shouldという言葉だ。辞書を引くと、willの過去形、canの過去形、shall の過去形と書いてある。まず、未来を表すwillの「過去」形というのに大混乱。何のこっちゃである。仮定法とかそういうのも知らないので、どうしてこういう単語があるのかよくわからない。あまりにできないので、いつの間にかやめてしまったのだろう。はっきり「もうだめだ、挫折!」と思ったわけではなく、本当にいつの間にか・・・。

第3回
 はじめてお金をもらって翻訳をしたのは、会社員の時だった。最初に就職した会社。ソフトウェアを開発する会社だ。今は、おそらく、早いうちからコンピュータとかプログラミングとか、そういうことを勉強していないと入れないと思う。でも、当時はそもそもコンピュータを持っている人が少なかったし、人手不足で好景気でもあったから、門を叩けば結構、簡単に入れてくれた。私は正直に言って、コンピュータにもプログラミングにもまったくといっていいほど興味がなかった。むしろ嫌っていた。ああいうのはちょっと変わった人(その頃はオタクとかギークとかそういう言葉はなかったのだ。あったら使っただろう)のやるものだと思っていた。じゃあ、なんでその会社に入ったかというと、簡単に言えば、「ヤケになっていた」からだ。何もしたいことがなかったから。
 大学の三年くらいまで、音楽家になりたいと思っていた。中学生の頃から音楽に夢中で、他のことはあまり考えていなかった。しかし、ある日、急に「自分には無理だ」と悟った。自分の作る、奏でる音楽がまったく好きではない、楽しくない。楽しくないから身が入らない、そんなことでプロになれるわけもない。そう気づいて、ぱたりと音楽はやめてしまった。ただ聴くだけの人になった。
 突然、目標がなくなり、その状態で就職、ということになったのだ。何をすればいいかわからない。ミーハー的な感覚でマスコミ各社を受けまくったが、箸にも棒にもかからない。バブル期で丙午ということもあり、同級生たちはあっという間に就職先を決めてしまう。自分だけが取り残される。焦った私は、リクルートから送られてきた分厚い冊子をはじめて手に取った。それが大学4年、8月の後半(遅い)。その頃は4年生になってから就職活動を始めるのが普通だった。就活なんて略語はなかった。
 冊子を見て、とにかく人手不足の業界を探した。人手不足なら、すぐに入れてくれそうだったからだ。自尊心をなくしていた私は、とにかくどこかから「おいで」と言ってもらいたかった。そして、見つけたのがコンピュータ業界だったというわけだ。この話、次回に続けます…

第4回
 なんとかコンピュータ業界に就職した私だが、2ヶ月間の導入教育(というものがあったのだ。贅沢だね)にも身が入らず、ぼんやりと9時から5時まで過ごし寮の部屋へ帰る日々。寮は六畳一間に二人部屋だった。「元は三人部屋だったのが二人になったんだ。お前らは贅沢だ」などと言われ、さらにやる気を失う。あれは配属を前にした面接だったと思う。「なぜ、この会社を志望したの?」と問われた。もう入社済みなので「御社の活動にかねてより強い関心があり・・・」などともっともらしいことを言わなくていいと思い、極めて正直に「コンピュータがこの世で何より苦手なので、苦手を克服したら無敵になるかと思いまして・・・」などと答えた。「そんなんじゃ、君は苦労するね」と呆れ顔で言われてしまった。自動車教習所の一時間目で「こんなに向いていない人、はじめて見た」と言われた時にも見た顔だった。
 6月になって配属されたのは、海外の企業に外注したシステムの検収を主な業務とする部署だった。扱うのはUNIX。パソコンも触ったことがないのに、いきなりメインフレームコンピュータを使うことになった。タンスのようなマシン。磁気テープがくるくる回っている。ハードディスクも小さな冷蔵庫くらいの大きさがあった。怖い…としか思わなかった。
 なぜ、自分がそこに配属されたのか、その理由は間もなく明らかになる。海外とのやりとりが頻繁にあるのに、英語のできる人間が課長だけ、という状態だったのだ。課長が人事に「誰か英語のできる新人を」と要求して、私が選ばれたらしい。まさか英語「しか」できない人が来るとは思わなかっただろうが。ともかく課長は、英語を使う業務から自分はこれで解放されると考えたようだ。
何度か、開発を外注していたアメリカの会社から技術者が来た。そういう時は、出迎えから何から関連する仕事をするのはすべて私、ということになった。空港までは行かなかったと思うが、宿泊するホテルへの案内もした。そして、到着翌日からは、ずっとべったり影のようについて歩かなくてはいけない。その技術者(ブライアンという名前だった)が帰るまでは帰れない。要するに専属通訳としてついて回るのだ。先輩たちから、「お前がいなくなるとブライアンと話ができなくなるからずっといろよ」と言われていた。
 何日かして、衝撃の瞬間が訪れた。マシンを見ながら話をするブライアンと先輩。懸命に通訳をする私。だが、途中から私は暇になった。なんと、通訳なしで話が通じているのだ。私が通訳をする前に先輩はブライアンの言うことを理解し、ブライアンもまた先輩の言うことを理解してしまう。先輩の英語力が急激に上がったわけでもブライアンが日本語を覚えたわけでもない。要するに、話すべき内容を熟知している人どうしだから、ちょっとしたキーワードを並べるだけで、言わんとしていることがわかるのだ。しかも、コンピュータのキーワードはすべて英語である。話している内容をさっぱり理解していない人間のヘタな通訳より、単語の羅列の方がわかりやすかったということだ。
 この時の体験は、今も、毎日の仕事に活きていると思う。まずはあの単語の羅列よりましな仕事をすること、すべての話はそれからだ、と思っている。

第5回
 前回の続き。ブライアン(前号参照)が来ている時は、通訳をしていたが、いない時には、メールの翻訳という仕事があった。当時のメールはインターネットのメールではない。インターネットは存在してはいたが、ごく一部の学者が使うもので、広く普及してはいなかったのだ。では、どうしたかというと、日本にある自分のオフィスのコンピュータとアメリカの会社のコンピュータを、メールを送信する時だけダイレクトに接続していたのである。それも、いちいち、今はもうないKDD(国際電信電話株式会社)に電話をかけて。要するに国際電話をつないで、その通話で音声の代わりにデータを送るということになる。わっかるかなあ、わっかんねえだろうな。インターネットが普及し始めるのは、それから5年ほど経った頃だから、この時点ではまだそんなものがこの世にあるとは夢にも思っていない。
 ただラッキーだったのは、私が使っていたシステムがUNIXだったこと。インターネットは元来、UNIXがベースの通信技術なので、ここで学んだことが後にすごく活きた。社内で当時、メインとされていた部署の技術はあっという間に古くなった。何が幸いするかわからない。
 メールの翻訳で印象に残っているのは、和訳した文章を先輩に見せて「何を言っているのかわからない」と言われたこと。それから、先輩の書いた日本語のメールの意味がさっぱりわからなかったこと。わからないと訳せなかったこと。「わからない」と言われた和訳は、よく考えると、書いている私自身が自分で何を書いているかわかっていなかったことに気づいた。
 これは勉強になった。目の前にいる人に「わかった」と言ってもらえるまで日本語を直す。あるいは、英語にどう訳していいかわかるまで、書いた本人に日本語の文章の意味を尋ねる。結局、今も、これとできるだけ近いことをしようと意識しながら仕事をしているのだ。
あと、覚えているのは、ある日、「文章をただ読んでいるより、目の前にコンピュータの実機があるんだから、動かしてみればいいじゃないか」と気づいたこと。突然、気づいた。気づいてみると、なんで気づかなかったかわからないほど当たり前のこと。文章にはそれに対応する現実が存在するはず。現実の事象を伝えたくて文章を書いたはずだ。だから、現実の方を見れば、文章に書いてあることの意味はわかるに違いない。そのとおりだった。そして、実機を動かして確かめ、意味を英語でも日本語でもない、言葉を超えた概念として頭に入れ、そのあとに文章を再び読むと理解度が段違いだった。最初の理解なんてゼロに等しかったのだと悟る。これも今にいたるまで仕事に生きている発見である。

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