見出し画像

教養。この深淵なるもの

何の役に立つのかよくわからない知識を雑学とか教養と呼んだりします。
「頭は良いけど教養がない」などと評される人がいるように、どうやら教養というのは頭の良さとは別の評価軸みたいです。
教養とは何か? それは必要なのか? だとすれば、なぜ必要なのか?
学生のときのことも思い出しながら、今思うことを書いてみました。
お仕事に疲れた頭で、肩の力を抜いてお付き合いくだされば幸いです。

偏差値が高いほど、役に立たない勉強を?

中学から高校に進学する際、商業高校、工業高校、普通高校があるとして。
私には大雑把にこんな先入観がありました。

商業高校: 偏差値が低い女子が行くところ
工業高校: 偏差値が低い男子が行くところ
普通高校: 偏差値が高い男女が行くところ

偏差値が高い、いわゆるお勉強のできる高校生が、古文や数学など実社会でほとんど役に立たないことを学んでいるときに、商業高生は簿記や情報処理を学び、工業高生は機械工学や電気工学を学んでいたりします。
どう考えても、商業・工業高校のほうが社会で役に立つことを教えています。

これを疑問に感じた高校生がいたとして、あなたならどう説明しますか?

商業・工業高校は、早く社会で一人前に働きたい人が行く。
普通高校は、まだ働きたくない人が大学に行く準備をするために行く。

うーん。
こんな説明で高校生は納得するだろうか。

このような進路の分かれ方は、日本特有のものではありません。
ドイツでは 10歳の子供がハウプトシューレ、レアルシューレ、ギムナジウムの3択を迫られます。

ハウプトシューレ: 5年制。外国語教育なし
レアルシューレ: 6年制。1ヵ国語を選択(たいてい英語)
ギムナジウム: 8年制。2ヵ国語を選択(英語とラテン語など)

ギムナジウムに進んだ者だけが、大学に行く資格を得ます。
日本よりもシビアですね。
学力の低い子が実学を学び、学力の高い子が虚学を学ぶ点は似ています。

私のドイツ語教師だったヒルダ先生は次のように説明してくれました。

「ハウプトシューレとレアルシューレは、労働者階級 (working class) が行くところよ。ギムナジウムは、上流階級 (upper class) を目指す人が行くの」

容赦ねえな! ヨーロッパのインテリゲンチャはよ!

反証できない仮説は科学に非ず

大学生時代、夜の仕事に明け暮れてほとんど学校に行かなかった親不孝者の私ですが、受けた講義の数が少ない分、その内容はけっこう憶えています。

それが「反証できない仮説は科学的ではない」という考え方です。
これだけ聞いて瞬時に理解できる人は、相当頭が良いと思います。

間違っていることを証明できないような仮説は、科学 (science) の名に値しない、と言っているのです。

科学の仮説は反駁されるためにある。
なんなら、否定されるためにある。
仮説というのは、生まれたときから、いつかは否定される運命にある。
そう科学者が言っているのですよ。
私はその姿勢に科学者 (scientist) の矜持を感じました。

この世界に唯一絶対の真理などない、と同義だと思います。
われわれ科学者は宗教家や政治家とは違うのだ、とも聞こえます。

天動説を否定したコペルニクスやガリレオを引くまでもなく、科学の歴史というのは否定の繰り返しなんですね。
(ダーウィンの進化論ですら、今では一部否定されつつあるとか)

その考え方を知って真っ先に思い浮かんだのは、高校で学んだ『物理』でした。

光は波動か?粒子か?

当時の普通校は、高校 1年で理系か文系かの選択を迫られました。
「物理で苦労する」と脅されて文系に逃げてしまう男女が多数発生するなか、私は迷わず理系を選びました。
とくに理由はありませんでした。
「理系=硬派」「文系=軟派」という図式だけがあり、自分の美学に従ったまでです。

高校の理系クラスは、2年の物理で波動を学びます。
ここで挫折者多数。
高校の物理の教師って教え方がヘタなんでしょうか。

音は波である。光も波である。

波動と格闘する日々が続き、ようやく理解できた頃には 3年生になってる。
そこで、高校生活で最も残酷な裏切りに遭うのです。

光は粒子である。

はい?

なんですか?

よく聞こえなかったのですが・・・
光は波動じゃなくて、粒子だとおっしゃる?

高2の物理、否定されちゃってるし。
この 1年、波動と格闘してきた日々は何だったの?
グレてもいいですか?

あなたにわからないでしょうね2


物理ハラスメントはさらに追い撃ちをかけてきます。

光は波動性と粒子性を持つ “量子” である。


漁師?

画像3

(👆 もう、脳がまともに聞こうとしていない)

物の理(ことわり)を探求する自然科学の長たる物理学がこのありさま。
社会科学(例: 経済学)や人文科学(例: 哲学)なんかどうなっちゃうの?
もっとブレブレってこと?

いや待てよ・・・
むしろ逆なのか。

人文科学 (humanities) のほうがブレてないんじゃないのか?

2000年以上変わっていないもの

大学の教養課程はリベラルアーツを学ぶところです。
工学部だった私は、文化人類学や社会思想史など専門と関係ない科目ばかり選択していました。
単位が取りやすかったから。

硬派な理系男だった私は、哲学や文学といった人文系の学問をバカにしていたフシがあります。
確かなものは “物質” にしかない、と思い込んでいたのでしょう。

反証主義的な自然科学の構えは確かにかっこいい。
でも、この反証主義を提唱したのは、自然科学者ではなく哲学者です。
自然科学を含むあらゆる科学の基礎に、方法論とか知の在り方を問う学問があるってことですね。

三大哲学者と言われるソクラテス、プラトン、アリストテレスは、3人とも紀元前の人物です。
哲学の本質的な部分は 2000年以上変わっていないことになります。
人間は 2000年以上変わっていない、つまり進歩していないということでもあります。

文学 (literature) にも同様のことが言えますね。
数百年前の文学作品が 21世紀の現在でもまったく色褪せていません。

芸術 (art) の世界もそう。
ダ・ヴィンチを超える芸術家や、モーツァルトを超える音楽家はいまだ現れていないというのが定説です。

教養のある人は詐欺師に騙されない

ちょっと話が逸れました。
リベラルアーツの話です。
ピーターアーツではありません。

ピーターアーツ

本来のリベラルアーツの意味はさておき、教養(=何の役に立つのかよくわからない知識)が豊かな人は、新手の言説に惑わされることがないのです。
本質的に何も変わっていないことを、言葉を変えて、さも新しい考え方であるかのように語りかけてくる詐欺師が世の中には溢れています。
教養のある人は本質がわかっているので、「そんなこと知ってるよ」で終わりです。

アリストテレスが 2300年前に同じこと言ってるよ。
カエサルが 2000年前に同じことやってるよ。
シェイクスピアが 500年前に同じお話書いてるよ。

人間は 2000年以上変わっていないのです。
今さら人間に関する新たな洞察や発見などあり得ないのですよ。

ビジネスの世界だってそうです。
コンサルが作る資料には、どう違うねん!と叫びたくなる言葉が溢れ返っていますよね。

マーケティングの次は、ブランディングだ?
コンプライアンスの次は、ガバナンスだ?
CSR の次は、サステイナビリティだ?
リストラの次は、トランスフォーメーションだ?
ティール組織の次は、アジャイルだ?
ダイバーシティの次は、インクルージョンだ?

よくもまあ次から次へと・・・

教養の高い人はいちいち真に受けたりしないでしょうけどね。

「ビッグの次は、グレートやね」
とか言っていいのは永ちゃんだけですから。

矢沢3