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夫婦がただの同居人になるとき

香港からスイスに移住して半年になります。
移住してすぐに感じた違いは、まちの作り、人々のふるまい、時間の流れ方でした。

そんな話はさておき。
住むアパートが変わったことで、家庭内に一つの大きな変化がありました。
香港で住んでいたアパートと現在ジュネーヴで住んでいるアパートは、部屋数も広さもほぼ同じ。明らかな違いは、香港ではフラットだったのが現在は 2階構造のデュプレックス(メゾネット)になったことです。

アパートの内見に行ったときのことは ☟の記事に書きました。

あの日 5件目(最後)に見た物件に、現在私たちは住んでいます。
1階部分は子供部屋と寝室。
2階部分は LDK(リビング・ダイニング・キッチン)と小部屋が一つ。
断面図にするとこんな感じ。(階段とバスルームは省略)

我が家は、私・妻・長女(11歳)・次女(6歳)の 4人家族です。
誰がどの部屋を使うかは、すんなりと決まりました。
自宅で仕事をすることが多くなる私は、2階の小部屋をもらいました。
そのとき、私はふと思ったのです。
この部屋にもベッドがあったらいいな。

ベッドを置いたらせまい部屋がさらにせまくなるわけですが、「私の部屋」(兼仕事部屋)にベッドがあったら、くだらないオンライン会議を寝そべりながら聞ける、と思ってしまったんですね。

そこで、香港のアパートで客室に置いていたベッドをシングルに改造し、私の部屋に置くことにしました。
するとどうなったでしょう。
私は夜も私の部屋で寝るようになりました。
私の部屋で夜遅くまで飲んだりnoteを書いたり仕事したりしていると、寝るためにわざわざ階段を下りてマスターベッドルームまで行くのが面倒くさいじゃないですか。

すると自動的に、マスターベッドルームのベッド(ダブル)には妻がひとりで寝ることになります。
さびしくないですか?
え?全然さびしくないって?
むしろ、ダブルベッドを独り占めできて快適だってか?

内見のとき “Master Bedroom” と呼ばれていたお部屋は、しだいに妻好みの色に染められていき、完全に「妻の部屋」となりました。

夕食時などは 2階の LDK で一家団欒したりもするのだけど。
夜になると、私以外の住人はみんな 1階へ。
そして私は 2階で独り。
なんだろう・・・この下宿感。

香港のアパートでは、「私・妻・次女」で川の字になって寝てたのに。
ときには長女も入って四本川で寝ることもあったんだがな。

まあ、子供はいずれひとりで寝るようになるものだからいいとして。
夫婦が別々に寝てていいのでしょうか?

単に睡眠という観点では、別々に寝るほうが双方ともハッピーかもしれません。相手のイビキや寝相の悪さに悩まされることもないし、自分のペースで眠りにつけるからです。
ただ、私はある種の危うさを感じてもいます。
この習慣が続くと、妻をただの同居人と感じてしまう気がするのです。
いやそれより、すでに妻は私のことをただの同居人と思っているのではないか。それどころか、私と同居する意味などないと感じているかもしれない。

夫婦がただの同居人になるときとは、相手が自分を必要としていない、と互いが感じるときだと思います。
自分は不要な存在、と実感するほど虚しいことはありません。
必要とされるとは、家事とか収入とか具体的に何かの役に立っているということだけではなく、もっと抽象的・精神的な部分で 「この人は “私” という存在を必要としている」と確信している状態のことです。

その状態を持続するためには、接点の維持が不可欠になるでしょう。
いつも一緒にいる必要はないですが、食事やおでかけなど夫婦の絆を感じる瞬間=接点をいくつか持っておくということです。
私と妻は、「同じ部屋で寝る」という接点が一つ減ったことになります。
同じ部屋で寝ることがマストだとは思いません。ただ、一つ減った分、別の接点を増やそうと思います。

名づけて、「私の部屋バー化計画」
私の部屋に小さなソファを置く。
子供たちが寝静まってから、妻を私の部屋に招いて飲んでもらう。
むかし祇園で働いていた経験を活かし、お酒とおつまみを作って “接客” する。
寝室は別々になったけれど・・・
私には貴女が必要ですという本心がどうか伝わりますように。

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