「事件」という概念をさまざまな観点から論じることを通して、ジジェク自身の思想が概説される:『事件! 哲学とは何か』(河出ブックス)

 結構大事なことだと思われるので、まずは訳語について。eventが「事件」と訳されているが、日本語の現代思想系テクストでは「出来事」という訳語がほぼ定着している、立派な術語である。しかし、本書はガチガチの学術書ではないし、驚きを込めた「事件」という表記の方がふさわしい箇所が多々あるため、こちらを選択したのも頷ける。他方、「俳句」が扱う(とジジェクは捉えている)純粋で無意味なeventは、「出来事」という日本語の方がふさわしいだろう。そういうわけで、本書の「事件」という言葉はより中性的な「出来事」も含みうるものであることを念頭に置きつつ読んだ方がいいと思う。いずれにせよ、「訳者あとがき」などで触れるべきだったと思う。

 
 本書でジジェクは、「事件」という概念を使って、自身のこれまでの議論を振り返り、まとめ直している。全体的にフランクに書かれており、すらすらと読めてしまうが、そうしてしまうと何の話をしているのかがよく分からなくなってしまうので注意が必要だ。ジジェクの著書は、奇抜な例え話があり、そこから意外な結論が導かれたと思ったら、また新しい例えが登場して……という風に話が飛んでいく。そうした新奇性というかキャッチーな部分、いわゆる「ジジェク節」もかなり楽しいが、「いまの議題は何だったか」と確認しながら読み進めないと本題を見失ってしまう。それに、結局のところ、ジジェクはあまり説明がうまくないのではないか。スピード感溢れる彼の文体と丁寧で親切な説明は確かに相容れないだろう。例示も、直前の議論との繋がりが一読してピンと来ないことがある。何より理論の核心になってくると、本書の見た目に反して、初心者が理解するのは難しいのではないかと思う。
 それでも、大部な著作がつづく最近のジジェクのなかにあっては、本人による概説書として読むことができるし、彼の考えを整理するうえでも有益だろう。

 各章ごとに違った事件の定義がなされる。
 第1章は終始映画を題材にするので(もちろん全てネタバレされる)、まったく興味のない読者は一番辛い箇所かもしれない。延々と続く映画談義は、初期の著作『斜めから見る』などを思い出させる。特にトリアーの『メランコリア』の長い解釈が目を引く。
 ここでは、事件は「われわれが世界を知覚し、世界に関わるときの枠組みそのものが変わること」と定義される(p.21)。中盤で種明かしがあるのだが、枠組み(フレーム)とは要するにラカンのいう「幻想」のことである。「幻想」とは「いかに欲望するかをわれわれに教えてくれるもの」(p.36)であり、実現しない願望を空想することではない。こうした幻想をいかに解体するかについて、逆説的な議論がされる。すなわち、「幻想そのものと直面すること」だというのだ。もっとも、これまでにラカンやジジェクを読んできた人にはお馴染みのテーゼだろう。
 最終的に、幻想=フレームをめぐる議論は、ハイデガーの技術論に行き着く。というのも、ハイデガーが「技術の本質」とするGestellの英訳は、enflameだからだ。
 

 第2章は、キリスト教の話。ジジェクは、キリスト教解釈に『脆弱なる絶対』『信じるということ』『操り人形と小人』の三作を費やしており、本章はその要約的な位置づけと言える。ここでは、事件は「〈堕落〉そのもの、つまり一度も存在したことのない原初の統一と調和の喪失」と定義される(p.59)。すなわち、第1章での「現実を捉える枠組み」から、「現実の発生」そのものが「事件」とされ、キリスト教を足がかりに論じられている。ジジェクは無論クリスチャンではないが、彼にとってキリスト教の存在感は大きく(特にバディウの影響による)、第4章でヘーゲルを、第5章で象徴界を論じるところと本章の議論は深く関わっているので熟読を勧める。キリスト教における女性の位置づけについて、実にジジェクらしい逆説が披露されていて面白い。

 第3章は、脳科学と仏教の話。両者が、単一な主体という考え方を否定する点で共通しているとし、さらにそのようにして脳科学が接近しつつある仏教思想(というか欧米における瞑想ブーム)が、目まぐるしく変化を続ける現代資本主義下の社会のイデオロギーとして機能していると糾弾する。
 仏教について自分はおよそ無知だが、ジジェクの仏教批判はさすがに一面的すぎるように思われた。しかし、仏教の原典というよりかは、西側の大衆文化となった「東洋的なもの」全般を批判することにジジェクの主眼が置かれているのだろうし、だとすれば基本的な論点は頷けるものである。西欧における仏教の大衆化の結果は、ニューエイジ的な蒙昧主義(「感じろ!」的なやつ)から、宗教性を脱色した瞑想のハウツー本の氾濫まで、さまざまだ。俺も、チベットだかどこかの僧侶が書いた瞑想本を1冊読んだことがある。著者に紹介された瞑想法により、すっかり憂うつな気分がなくなったという妙齢の女性が登場するのだが、彼女の抱えていた問題とは「亭主関白な夫にいつも怒鳴られ、パシリなどをさせられている」ことによるストレスだった。このくだりで、「おいおい、ちょっと待てよ。それって瞑想で解決する問題じゃないだろ」と思う人ならば、少なくともある程度はジジェクに首肯するだろう。

 第4章は、プラトン、デカルト、ヘーゲルという3者の哲学について、ジジェク独自の解釈を語る。いずれもお馴染みの議論なのだが、ジジェクの主体(化)論には、前章で批判した仏教の没主体性と同様の問題が見いだされるのではないだろうか。というのは、ジジェク的主体、つまり無とか否定性といった言葉で語られる主体もまた、行為や善悪の決定不能性に陥っているように思われるからだ。結局、この点で仏教からどのように差別化するのかは、どうも説明が尽くされていないように思われた。
 ただ、恐ろしく単純化していいなら、何となく目星はつく。おそらく、自然と文化の対立を、仏教と自身の対立と重ねあわせているのだろう。ジジェクはp.102でヘーゲルに異議を唱えているが、ここでのヘーゲルの考え(自己への引きこもりを動物状態への退行と捉える)を実践するのが、(ジジェクが考える)仏教に近い立場ということになるのではないか。そう捉えると、2章におけるキリスト教の議論と、その際のチェスタトンの引用とも合致する。
 それでもどこか釈然としないのは、結局のところ、ジジェク的主体の概念を俺がしっかりと理解できていないのだろう。その一方で、両者の差異が、ジジェクにより過剰に強調されたものであるという印象も拭えない。(この疑問は、ジジェクが主体の否定性と同一視す「死の欲動」に、フロイトが「涅槃原理」を見出していたことを思い出すと、さらに複雑になる。ジジェクに言わせると、仏教の第一原理は「私は苦しみたくない」であり、これはすでにフロイト派には自明な見解でないそうだ。しかし、素直にフロイトを読めば、「死の欲動」のポイントはこういうことではないか。快原理がすでに現実適応のために修正されたものであり、その原初的形態においては、苦痛がゼロの状態=死=「涅槃」まで達しようとするのだと。つまり、むしろ「快原理の徹底」が「死の欲動」なのではないか。)
 なお、本章では、外界とのつながりを一切断ち、自己へと引きこもる過程としての「コギト」をPTSDと重ね合わせているところが一番興味深いポイントだった。暴力の心理的衝撃を和らげる宗教etcの膜が取り外された現代においては、あらゆる暴力が説明のつかない現実界的なものとなり、それゆえ心的外傷を起こすのだという。なるほど……。

 ここで力尽きてしまったので以降は省略するが、 芭蕉の俳句、Psyの楽曲『江南スタイル』のMV、映画『アクトオブキリング』など、さまざまなものが縦横無尽に取り上げられ、刺激的な議論が続く。俳句を論じるくだりでは、ジジェクが悪ノリ入っていて笑ってしまった。また、「私は強姦がよくないのだと議論する必要のある社会なんぞに住みたくない。強姦を擁護する人間がいたらすぐに頭のおかしいやつだと見なされるような社会に住みたい」(p.177)という、ジジェクらしからぬ(?)直截な言明に胸を打たれた。
 他方、各所の議論は決して独立しているのではなく、全体を通して「現実およびその変化と、主体との関係(あるいは“相関”)について論じていることに注意しながら読み進めることを勧めたい。そして現実というとき、それが要するに政治的、社会的現実のことであり、ジジェクの関心が徹頭徹尾「革命」の可能性にあることも。

 
 最後に、翻訳について。いろいろな人がジジェクを訳しており、その出来もまちまちだが、いち早くジジェクを訳してきた鈴木晶氏の訳文は定評がある。その定評には、俺も異論ない。ないのだが、おっちょこちょいなのか何なのか、明らかな誤訳があるのも確かである。たとえば、p.47の最終行の〈現実〉は〈事件〉の間違い。原書で確認済みだが、文脈的にも明らかにおかしいので、校正段階で訳者か担当者が気づくべきだ。それと、原書でイタリックの箇所の強調処理を忘れている箇所も散見された。

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