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平安の幕開け

第百六十回 サロン中山「歴史講座」
令和六年2月12日

瀧 義隆

令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
今回のテーマ「平安の幕開け」

はじめに

「平安時代」とは、令和六年の現在からすると、約1,230年以前の時代であり、王朝中心の社会体制下にあって、ごく一部の貴族達が「煌びやか」に暮らす特殊な時代であった、と見ることが出来るのである。

今回の「歴史講座」では、このような「煌びやか」に見える「平安時代」が「どのようにして形成されていったか?」、そして「どのようにして終焉を迎えたか?」について目を向けてみたい。

1.「平安時代の始まりと終焉」について

この項では、誰が何故に「奈良」の「平城京」を見限って、「長岡京」から、更に「平安京」に遷都したか?、また、その「平安京」の終焉ついて考察してみたい。
まず、誰が「平安京」に遷都したかを見ると、第五十代の天皇にあたる「桓武天皇」である。
①「桓武(かんむ)天皇」について
第五十代の天皇の「桓武天皇」について示してみたい。
生誕・・・・天平九年(737)
没年・・・・延暦二十五年(806)三月十七日
幼名・・・・山部王(やまべのおう)
父親・・・・光仁(こうにん)天皇
母親・・・・高野新笠(たかののしんか)
妻・・・・・藤原旅子(たびこ)・藤原吉子(よしこ)・多治比真宗(たじひのまむね)・藤原小屎(おくそ)・藤原乙牟漏(おとむろ)
寵愛を受けた妃(きさき)・・・・・百済永継(くだらのながつぐ)
子供・・・・平城(へいじょう)天皇(母親は藤原小屎)
      嵯峨(さが)天皇(母親は藤原乙牟漏)
      淳和(じゅんな)天皇(母親は藤原旅子)
      伊予(いよ)親王(母親は藤原吉子)
      葛原(くずはら)親王(母親は多治比真宗)
      万多(まんだ)親王(母親は藤原小屎)
      良岑安世(よしみねのやすよ)等(詳細不明)
桓武天皇は、光仁天皇の長男(第一皇子)として誕生し、成長して皇族としてよりも、官僚として期待された人物であり、「大学頭(だいがくのかみ)」や「侍従(じじゅう)」等に任じられていた。34歳の時、称徳天皇が崩御(ほうぎょ)すると、父の白壁(しらかべ)王(後の光仁天皇)が皇位につくと、子供の山部王は、急遽、皇位の継承者となった。父の天皇即位後は、親王宣下により、官位を四品(しほん)の位を授けられ、「中務卿(なかつかさきょう)」に任じられたが、生母が身分の低い階級の出身であったが為に、「立太子(りったいし)」は実行されなかった。

朝廷内の政争や異母弟・妹の「井上(いのえ)内親王」や「他戸(おさべ)」が宝亀三年(772)四月にあいついで廃嫡された事から翌年の宝亀四年(773)一月に山部王が皇太子となった。天応元年(781)四月三十日、父の光仁天皇から譲位されて天皇となり、翌月に同母弟の「早良(さわら)親王」を皇太子と定めた。しかし、延暦四年(785)九月頃、「早良親王」を藤原種継(たねつぐ)暗殺の廉(かど)により、廃太子として流罪に処した。

以後、奈良の「平城京」が肥大化するにつれて、奈良仏教各寺の影響力が拡大して、朝廷の治政にも影響を及ぼすようになってきた事や、天武天皇流の治政方策が荒廃し、天智天皇流の皇統に戻された事もあって、桓武天皇は奈良に朝廷を置くことが嫌になり、奈良の背後にあたる山城国に遷都することとした。

延暦三年(784)に、「長岡京」を造営するが、天災や近親者の不幸等が重なった事が、民衆に「これらの災いは天皇に徳がない為だ」と批判される事を恐れ、十年後の延暦十三年(794)になって、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)の提言もあって、気学における「四神相応」の土地相により長岡京から艮(うしと)方位(東北)に当たる場所の「平安京」に改めて遷都した。これが「平安時代」の始まりとなるのである。

※「気学」とは、古代中国から我国に伝わった方位の吉凶を占う学問である。川尻秋生著『平安遷都 シリーズ日本古代史⑤』岩波書店 2011年
②「平安時代の終焉」について
平安末期の平治元年(1159)、藤原通憲(みちのり)と藤原信頼(のぶより)との権力闘争が原因となって、「平治の乱」が勃発し、この混乱に平清盛と源義朝とが巻き込まれて争うこととなり、結果、平氏が勝利して平清盛が武士としては初めて「太政大臣」まで昇り詰め「平氏にあらずんば人にあらず。」というような、平氏全盛期を構築したものの、治承五年(1181)に平清盛が死去すると、急激に平氏の勢力が衰退してしまい、元暦二年(1185)の「壇ノ浦の合戦」で源氏に敗北し、平氏は滅亡して源氏が台頭し、「平安時代」の終焉となる。 戸川 点著『平安時代の政治秩序 同成社古代史選書』同成社 2019
平氏のこの滅亡の様子を『平家物語』で見ると、

『維盛入水中将しかるべき善知識かなと思し食し、忽ちに、妄念をひるがへして、西に向ひ手を合はせ、高声に念仏百返ばかりとなへつつ、「南無」と唱ふる声ともに、海へぞ入り給ひける。兵衛入道も石童丸と同じく御名を唱へつつ、つづいて海へぞ入りにける。』

市古貞次・小田切進編 日本の文学 古典編 30 『平家物語 下』ほるぷ出版 昭和六十二年 202P

「中将(ちゅうじょう)」・・平清盛の嫡流の孫である平維盛(これもり)のこと。
「善知識(ぜんちしき)」・・良い導きのこと。
「兵衛入道(びょうえにゅうどう)」・・滝口入道とも言い、平清盛の嫡子の平重盛の家臣で齋藤時頼のこと。
「石童丸(いしどうまる)」・・平維盛の家臣の与三兵衛石童丸(よさびょうえいしどうまる)のこと。
「御名(ぎょめい・みな)」・・仏様や神様の名前のこと。
以上のように、『平家物語』では、平清盛の嫡孫の平維盛が海中に投身してしまったとするが、平維盛の死については諸説があって、いまだに明確なものはない。いずれにしても、平清盛が築いた平家政権も、嫡孫の平維盛の死によって終焉を迎え、源氏による武家政権の鎌倉幕府が樹立されるのである。

ここで、「鎌倉時代」が何時始まったか?を明確にしなければならないが、「鎌倉時代」の始まりについては、次の三つの説があって、確定的に位置付けすることは不可能となっている。
「鎌倉時代」の始まりは、
①源頼朝が後白河天皇より東国支配権を認められた時の、寿永二年(1183)とする説。
②源頼朝が後白河天皇より守護・地頭設置権を認められた時の、文治元年(1185)とする説。
③源頼朝が後白河天皇より「征夷大将軍」に任じられた時の、建久三年(1192) とする説。

以上のような説があって、①の説と③の説との時間差は、約10年の相違が生じてくる。
このように、「鎌倉時代」の始まりが明確でない以上、「平安時代」の終焉を何年である、と断定し得ず、従って、「平安時代」は「寿永二年頃から建久三年頃に終わりを迎えた。」としか表しようがないのである。『国史大辞典 第十二巻』吉川弘文館 平成三年 439P

2.「平安時代の特質」について

延暦十三年(794)から始まり、建久三年(1192)までの約400年の間継続した「平安時代」は、その王朝政治の特質から、歴史学的には次のような四つの時代区分がなされている。

「一期」・・・「藤原四家(南家・北家・式家・京家)による権力闘争の時」延暦十三年(794)から始まった、「平城太上天皇の変」後、朝廷の権力が嵯峨天皇のもとに一本化され、北家の藤原氏が政治の主導権を握った。
「二期」・・・「藤原氏による他氏排斥の時代」藤原冬嗣(ふゆつぐ)は、弘仁十四年(823)の「承和の変」で橘氏を失脚させ、また、貞観八年(866)の「応天門の変」では伴(とも)氏を政治から失脚させた。この後、藤原時平(ときひら)は、宇多(うた)天皇に気に入れられて抜擢され、政治的に頭角を現すようになった。関白の藤原実頼(さねより)は、菅原道真(みちざね)を排斥し、「安和(あんな)の変」で左大臣の源高明(たかあき)を太宰府に左遷した。また、「承平(しょうへい)・天廣(てんぎょう)の乱」頃から朝廷内の武士団も強力化し、活動が活発化してくる。
「三期」・・・「藤原摂関政治の全盛期」安和二年(969)の「安和(あんな)の変」後は、藤原氏に対抗出来る勢力がなくなり、「摂政」や「関白」の地位を藤原氏が独占するようになる。しかし、藤原氏一族内では、「氏長者(うじのちょうじゃ)」を巡る争いとなる。藤原兼家から権力を譲り受けた藤原道長は、「氏長者」となったが、息子の藤原頼通(よりみち)の代になると、頼通に男子の後継者がなかった為に、藤原氏の勢力が衰退してしまい、後三条天皇の院政時代を迎えることとなった。
「四期」・・・「藤原氏の衰退・院政と平氏政権」後三条天皇以後も、白河天皇・堀河天皇と、自らが上皇となって、院政を継続した。各上皇は北面の武士や源平の武士団を朝廷の軍事力として活用した。皇位争いや院近臣同士の争いが原因となって、保元元年(1156)の「保元の乱」、平治元年(1159)に「平治の乱」が勃発し、この争いに源平の武士達が利用され、結果、平氏が勝利を得て、やがて平氏政権を確立したが、治承四年(1180)に「以仁(もちひと)王」が平氏打倒の挙兵にでて世情が混乱し、更に平清盛が死去すると、急激に平氏が勢力を失い、源頼朝を棟梁(とうりょう)とする「鎌倉時代」となる。 目崎徳衛著『平安王朝 講談社学術文庫』 講談社 2021年

以上のように、平安時代の特質を四つに区分しても、そこに共通するものは、藤原氏一族の内紛がらみと、栄枯盛衰の推移を見るだけではなかろうか。

3.「平安朝の官職」について

大河ドラマ「光る君へ」を楽しく観賞する為には、平安京の宮廷を動かしている公卿達の役割について理解する必要がある。この項では、平安時代の公卿達の朝廷内で官職のランクとその職務について簡略に示してみることとする。
「摂政(せっしょう)」・・・天皇が幼なかったり、女帝などの時に、天皇に代わって政治を執り行う事や、執り行う人を指す。
「関白(かんぱく)」・・・成人となった天皇を補佐する官職のこと。
「大政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)」・・太政官の長官で、本来は天皇の子供の皇子が就任したが、平安時代になって、藤原氏の系統によって独占されるようになった。
「左大臣」・「右大臣」・「内大臣」・・・「三公(さんこう)とも称される職で、太政官の事実上の長官であり、左大臣がいなかったり、病欠の場合には右大臣が代行した。
「大納言(だいなごん)」・「中納言(ちゅうなごん)」・「参議(さんぎ)」・・・太政官において、左大臣や右大臣達の次官にあたる職であり、当然ながら、中納言よりも大納言が上位となる。参議は大納言や中納言の下位となる。
「弁官局(べんかんきょく)」・・・「左弁官局」と「右弁官局」とがあって、公卿や参議などが議決したものを実行する役職である。
「中務(なかつかさ)」・「式部(しきぶ)」・「冶部(じぶ)」・「民部(みんぶ)」・・・「中務」は、天皇の側にいて、実務を行っていた。
「式部」は、文官の名簿の管理や、位記・考課・試験・儀式・教育等の全般を司っていた。
「冶部」は、貴族達の氏姓や婚姻・相続・外交等を司っていた。
「民部」は、諸国の戸籍や税金等、国家財政を司っていた。
「大弁(だいべん)」・「中弁(ちゅうべん)」・「少弁(しょうべん)」・・・「大弁」は、行政の執行機関である。「中弁」は、「大弁」の下位にあたり、「少弁」は「弁官」の中でも最下位の地位となる。
「大史(だいし)」・「少史(しょうし)」・・・天文や暦法、国の法規や宮廷内の諸記録を司る役職である。「大史」はその長である。「少史」は、「大史」の下の地位になる役職である。
「少納言局(しょうなごんきょく)」・・・「少納言」は、天皇の国政に関する政務の秘書官としての役割をする官職である。
「大外記(だいげき)」・「少外記(しょうげき)」・・・「外記」は、太政官内の行事を記録したり、文書を作成する部局で、「大外記」が上官で、「少外記」が部下となる。
「右弁官局(うべんかんきょく)」・・・「兵部(へいぶ・ひょうぶ)」・「刑部(ぎょうぶ)」・「大蔵(おおくら)」・「宮内(くない・みやうち)」の四局を統括する部署となる。
「兵部」は、太政官に属していて、武官の勤務評定や、採用・昇任等の人事、及び兵器・城等を統括していた。
「刑部」は、訴訟や罪人の裁判や処罰等を司っていた。
「大蔵」は、諸国から納められる「租(そ)庸(よぅ)調(ちょう)」の税を管理していた。「租」とは、田んぼで収穫した米を納めるもので、「庸」は都でただ働きするか、代わりに布等を納めるもの達の管理を行い、「調」は絹・紙・漆等を税として納めることの管理をしていた。「宮内」は、宮廷内の調度・御料・調貢等を保管に関する一切の事務を行っていた。『日本史広辞典』山川出版 1997年
   
上記のような官職に区分されるが、貴族であれば誰でも高官に就任出来るものではなく、平安時代の貴族には、公卿と諸大夫との二種類があり、公卿は三位以上の者と限られており、「太政大臣」や「左大臣・右大臣」、「大・中納言・参議」に就任し、諸大夫は四位または五位の者となっていて、「地下人(じげにん)」とも称され、「弁官局」以下の官職に就任していた。この官位とは、推古天皇十一年(603)に聖徳太子が定めた「冠位十二階」に始まるものであり、「律令制」の根本となっている。「官位制」とは、本来、官職の世襲制を廃止して、適材適所の人材の登用を目的とするものであった。
平安時代の藤原氏一族は、以上の官職のランクの最上位となる「摂政・関白」の座を手に入れ、天皇に代わって天下の政権を独占しょうと様々な手段を講じるが、その一例を見ると、
●何としても自分の娘を入内させ、天皇に気に入られようにして、天皇の子を懐妊するようにしむける。
●天皇の子を懐妊して男子を出産すれば、その子を「嫡子の皇子」として天皇に認めさせ、「皇太子」とする。もし、先に別の女性の産んだ「皇太子」がいれば、天皇を脅かしてその子を廃嫡させて、自分の娘の産んだ子を無理やり「皇太子」にさせる。
●孫を「皇太子」として認めさせると、天皇の外戚となることから、次の手段として、天皇を無理やり病気にしたり、病気でなければ毒をもってでも天皇の身体を弱体化して、天皇に退位を迫る。
●病気等を理由として天皇を除外すると、孫である「皇太子」を新たな天皇に就任させ、成人前の天皇であれば「摂政」に成人していれば「関白」に就任して、天皇の実権を無力化にし、実権を「摂政」・「関白」のものとしてしまうのである。
●実権を確実なものとすると、政治上のライバルとなる者達を、地方に左遷し、対立勢力を壊滅し、自分の嫡男を高位の官職に就任させて、一族の為のみの繁栄を考えて、次世代の基盤を確実なものとする。
このように、政権を掌中にする為には、手段を選ばす、己(おのれ)一人、または、己一族の利益を得る事のみを考えており、国や庶民の事などは二の次、三の次であって、どうでもいい事なのである。

まとめ

平安の時代も、そして令和の時代の現在においても、国の政治に携わる者は、国の「まつりごと」をお題目にして、実は己(おのれ)自身の栄達を主眼としている者ばかりにしか見えない。国政を言いながら、政治家自身の「政治資金」を増やすことばかり考えて、国民の安寧などというものは、「全くそっちのけ」となっているのが現実ではなかろうか。「何が政治家か?」本当に馬鹿らしい話である。この日本の国には、政治の本質を究める人物はもはや絶滅したとしか考えられず、「実になげかわしい。」ことと言うほかにない。

参考文献

次回予告

令和六年3月11日(月)午前9時30分~
令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
次回のテーマ「平安京の暮らし」について

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