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県民性を変えるには、というお話

先日、古賀史健さんが「県民性とタモリさん」というタイトルで県民性について書かれていた。

そもそもタイトル秀逸すぎるのだけれど、内容としてはこうだ。

タモリさんのギラついた感のない透明性と福岡の生まれということに相関性を感じないという感想から、メディアで喧伝される福岡の県民性が嫌い「だった」という感情を持ち出しながらも、最終的に県民性とは(気質ではなく)文化だとし、その中にいる人々の「どうありたいのか」への途中経過であると締めている。

県民性とは(気質ではなく)文化の話であって、文化とはすなわち「なにがよしとされているか」の話なのだ。
県民性とはたぶん、そこにいる人びとが「どうあるのか」の結果ではなく、「どうありたいのか」の途中経過を指しているのだ。

僕は新潟というエリアが好きで、土着してる。

その地で暮らし、働いている。

ただ、その保守的すぎると感じてしまうほどの保守性には、年令を重ね、なにか事を起こそうと思った際の重しになることも決して少なくはない。

日本の中で、(別に自分の実体験など屁にもならないのだけれど)挑戦をしようという人間に対してえらく冷たく不寛容なところがあり、ある人の言葉を借りれば新潟ほど日本人の気質を体現しているエリアはないと言われてしまうほどだ。

そんなことはないだろう、という人も中にはいるかも知れないが、これをお読みの新潟県人は思い返してもらいたい。

権威や立場、背景がイマイチ見えない人を信用したいとは思えないとは思うが、その理由はなぜか。

同じことを18歳の高校を出たばかりの若者がいうことと、55歳のどこかの社長がいうことで、どちらを【無条件に信用】するのか。

これはリスクの話で、新潟というエリアでリスクを取った行動を取ろうとすると、一気に浮いてしまうし、人が離れていく。

これはもしかしたら、同じ国内でも同様のことがあるのかもしれない。

けど、それを古賀さんのいう県民性に照らし合わせると、結果ではなく、途中経過だということになる。

それであれば、まだまだ改善の余地はたくさんあるということにもなる。

つまり、行動次第によって変革を遂げることが可能なはずだ。

失われた20年とか30年というのはリスクを取った行動を取ろうとする人間に対して後ろ指さしてフォローもしない、もしくは足を引っ張ることしかしなかった人たちが起こしてきた事実だ。

この20年とか30年という単位は、地球規模で見たら短い年月かもしれないけど、僕の単位で見たら大きな数字だ。なにせ、生まれてから30年も経つのだから。

そして、県民性、つまりエリアに住む人達の目指すべき姿や在り方を認識から変えていこうと思うと、誰かがバカみたいに動いていくことをみて「同じことができるかもしれない」と思えれば、そこから広がっていくのかもしれない。

なぜなら、まだまだ途中経過であり、過程なんだから。

そして、その行き着く先はない。

ゴール設定なんてことはする必要がない。

常に追い求めていくことでしか県民性は育まれない。

だったら、一人でも多くの人がちょっとしたことでもリスクを取って行動し、それをフォローする関係が作れるようなエリアにしたい。

僕は新潟というエリアをそんな風に活発なエリアにしたい。


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