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無菌状態を期待する社会の来訪

枕にかえて

 新型コロナウィルスの発生が確認されたのは2019年11月頃だったか。そこから2年以上が経過したものの、このウィルスとの大戦は一向に収束の気配がない。しかし、世界が経験してきた大戦が一次二次ともに4、5年で収束を見せてきたことを踏まえると、戦争とウィルスとの共生とは異なるように見えるかもしれない二つの事柄も「社会変容を起こした」という点では共通する。

 これまでに多くの感染症が世界中で流行してきたし、その中で多くの人命が損なわれてきた。しかし、ここまで手洗いや消毒、マスクといった感染症対策が普遍的に扱われることはなかったし、ワクチン接種の有無や病床率などが一般的な報道として扱われるようなこともなかった。このことか、現在我々が直面しているウィルス騒動は、もはや世界大戦なのだということである。そして、このウィルス騒動も過去の大戦同様、4、5年で大方の終息を迎えるのではないかと僕は見ているが、その先には「綺麗で清浄な世界」を夢見る人たちが多数派になるのだろうことが透けて見える。

 以下の報道はまさにこういう世界線の訪れを感じるのにうってつけだ。

 どうも、えんどう @ryosuke_endo です。今回は、マスクや消毒によってウィルスを避けるような傾向は、我々が生活する実社会においても存在する「認識」となり、あらゆる媒体から表出させられているものである、なんてことを書いていく。

▶︎ 我々は本当に「キレイ好き」なのか

 先日、こんな内容で投稿をした。あらゆるところで見られるようになった事柄が「清浄で綺麗な世界」を求めた結果、人目につくような媒体やコンテンツ、つまりソーシャルメディアやテレビ番組、映画といった「誰かが目にするような媒介物」はどれをとってみてもそうなっている。つまり「清浄で綺麗な世界」が作り出されており、数年もしたらこの世界観は「普通」のものとして扱われるだろう。

▷ 「監視社会」となったネット前提の生活

 我々の生活においてインターネットはすでに不可欠なもの60歳未満の生活者でインターネットに触れたことのない人間の方が少数派であることは、総務省の調査から(13〜59歳までの各年齢層で9割を上回っていること)も明らかだ。

(出典)総務省「通信利用動向調査」 https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/statistics05.htm

 おそらく、これに異を唱えられることはないだろうが、あらゆる人間に門戸が開かれているからこそ「綺麗で清浄な世界」を求める人たちが増えることにもつながっている。

 テレビをはじめとしたマスメディアで「綺麗で清浄な世界」が加速していったのは1990年から2000年にかけてだろう。日中やゴールデンと呼ばれる19時から22時までの時間帯のテレビ番組からは女性の裸体をはじめ、LGBTQなどを蔑視するような言説が扱われなくなってきた。

 僕が子どもの頃、とんねるずの石橋貴明が扮する保毛尾田保毛男が堂々と登場してはお茶の間で笑いをとっていた(とされている)。ところが昨今、このネタは大いに「炎上する」ようになった。人権意識が芽生えたのだといえば聞こえはいいものの、実のところ「綺麗で清浄な世界」を望む人たちが「そんな性差別を助長するようなコンテンツはあるまじきことである!」と声高にインターネットを通じて叫べるようになったからだろう。

 インターネットが普及したことに加え、小さくて高性能な端末を有する人間が増えたことで多様な意見がネットの海に投下されるのは必然だ。また、大手をはじめとしたマスメディアもネット上の声を無視できなくなってきていることも、この光景に拍車をかけることに寄与している。

▷ 時代の変遷により許されなくなること

 この光景は何も一般大衆的な報道やテレビ番組だけでなく、マンガやアニメなどのサブカルチャーにも広がるものだ。

 昭和時代のマンガやアニメの主人公は汚くても許された。いや、むしろ汚かった。汚いというのは語弊があるかもしれないが、『巨人の星』の主人公である星 飛雄馬ほし ひゅうまの家庭は貧乏で生活も苦しい家庭であることを描いていたし、『あしたのジョー』の主人公である矢吹 丈やぶき じょうは「ケンカ屋」という令和日本においては到底信じられない役割を物語の冒頭で与えられている。

 キン肉マンの主人公キン肉スグルは豚と間違われて宇宙船の外に放り出されたし、北斗の拳に至っては舞台が「核戦争後の地球が荒廃した199X年の世紀末」である。他にも昭和の時代には名作が誕生しているが、今の時代に即して話題になったり売れるようなことは間違ってもないだろう。

 それは主人公や世界観が「綺麗で清浄ではない」からだ。

 いわゆるエログロと呼ばれる青少年少女に「悪影響を与えるとされる」表現が規制されていることは、そんな「綺麗で清浄な世界」を実現したい人たちの規制線によって築かれているといっても過言ではない。

 時代の移り変わりによって価値観の主体となる世代が変わる。

 つまり、親となる世代が変わることにより、主流派・多数派の価値観も変わる。昭和の時代に許されていたことは平成で許されなくなり、平成の時代に許されていたことは令和に駆逐される。

 時代の変遷によって許されなくなることが増えてくるのだ。

▷ ワクチン接種するように綺麗で清浄な世界を

 そんな規制線を張る姿勢や認識の変移は、まるで新型コロナウィルスから自らの健康を保持するために接種するワクチンのようなものだ。ワクチンの接種は、そもそも感染することを避けたり重症化を抑制するために行う。

 無菌状態をつくり出すことによって、我々の視線や目線に入ってくる事柄を「綺麗で清浄なもの」であると位置づけることは、精神的な安寧を確保するための自衛手段だと言えるのかもしれない。

 「綺麗で清浄なもの」は「能力が高くて然るべき」だし、「綺麗で清浄なもの」は「美男美女であるべき」なのだ。また、「綺麗で清浄なもの」は「誰もが羨むリーダーシップ」を発揮するし「綺麗で清浄なもの」は「誰からも好かれるようなヒーロー」なのである。

 テレビ番組やマンガ、アニメの主人公は「綺麗で清浄なもの」だから能力が高くても当然だし、顔も良ければ性格もいい。

 昭和時代を代表するグルメ漫画である「美味しんぼ」の主人公である山岡士郎は三流大学を何度も浪人して入学の上に留年を重ねる上に、新聞記者でありながら遅刻欠勤ばかりなくせに出勤しても居眠りばかりをする、どうして会社に所属していられるのかが全く理解できない人物だが、これらを踏まえると、とても「綺麗で清浄なもの」とはいえない。

 だが、当時はそれでよかったし、それがよかったのだ。綺麗なものの裏には汚いものがあると昭和の時代には思われていたが、いまは違う。綺麗なものはどこまでいっても綺麗でなければならないのだ。

 カッコいい男前の主人公が理路整然と正義となるし、手足も長い容姿端麗な人が主演俳優な映画では物語中盤で挫けたり悩んだり苦しむ様子を見せながらも最終的には共感を得られるような発言や展開を見せなければならない。

 いまはそういう時代なのだ。そういって受け入れる他に手段はない。

 しかし、そればかりではない。鬼滅の刃のヒットは、そんな「綺麗で清浄な世界」だけではないコンテンツとしてヒットしていることに、どこか救いがあるようにも思える。

 鬼滅の刃は「グロい」場面がいくつもある。

 鬼の首を切らなければならないし、血はドバドバ出る。アニメの一話で家族が惨殺されている場面などは、とてもショックの大きい場面だったし、それ以降も刀を振り回したり顔を蹴飛ばしたりしながら長男と長女は鬼たちとの戦闘を繰り返していく。

 どうも「綺麗で清浄な世界」だけじゃなくていいという世界線が構築されているようなのだ

 つまり、これからも面白いコンテンツのアイディアが密かに生まれ、誰かが制作・編集し、映像化され、どこかしこからヒットしていく。

この流れがある以上、どんな世界線になったとしてもいいような気もする。ただ、気をつけなければならないのは、昭和時代の認識や平成時代の認識は既に過去のものとして受け入れる必要があるということだ。

 そんな社会をどう思うのかは個人の自由だが、受け入れることができなければ苦しむばかりなのではないか。また、これはあらゆる事柄で共通すると思える。学校の在り方もそうだし、家庭のあり方もそうだ。いろいろな事柄、認識が当時とは異なるのである。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

そこはかとなく、日本のマンガというコンテンツが世界で受け入れられることって、実はものすごいことである。同時に、いまはYouTubeの普及もあり、主題歌を歌う人たちにも注目が注がれるようになっていることは光明だといえるだろう。しかし、アニメの制作現場の低給ぶりはどうにかした方がいいとは思うのだ。

『読まれて共感されるから物語になる』これはRe:CREATORSというアニメの中で語らえるセリフだ。以下、マンガボックスの野上さんも「物語が根本にある」と語っているが、ストーリーとはそこに共感性があるかないかが重要なのだと強く実感するばかりの毎日だ。

映画が好きだ。どんな愚策だと評価されるものであったとしても鑑賞することはできる。あまりにもダメであれば途中で断念するかもしれないが、映画は好きだ。作品によっては映画館で鑑賞することで感慨深い気持ちになることができる作品もある。2021年公開のエヴァンゲリオンはそうだった。

▷ 本noteに関連する紹介したい書籍

ネットの普及によってあらゆるものが可視化できるようになったが、その一つに不毛な言い争いや井戸端会議のようなしょうもない寄り合いもそうだろう。その先に何があるのかを考えてる暇なんてないのかもしれないが、それを考えるのにうってつけの本だと言える。

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