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「SNSのアカウントを育てる」って何だろう会議

どうも、(おはよう!会えなかった時のために、こんにちは!こんばんは!おやすみなさい!)えんどうです。

ここ数年、SNS上で「個人ブランディング」なるものが一気に隆盛を誇っていて、なんだか鬱蒼うっそうとした雰囲気を感じざるを得ない。

煌びやかな世界が展開されて...

読んだ人が憧れを得そうなキラキラした言葉もそうだし、共感が得られやすそうな"エモい"言葉を盛りこんだ投稿なんかもある。それによって各媒体でフォロワー数を増やし、自らの身銭を稼ぐ手段に活かすことを目指す行為全般を指すものだ。(と、勝手に定義づけている。)

インターネットの普及以後、閲覧数が多いことにはじまり、投稿への反応数もそうだし、フォロワーが多いことが一つの価値基準のようになっている。これがあるから、ソーシャルメディアにおける"数の論理"みたいなものは多ければ多いほどに「影響力」があると認識され、そこに身銭を稼ぐための「業務」や「作業」などお金をもらえる事柄の仕事や機会が舞い込んでくるようになる。

日夜、それを目指して必死になっているのか否かは別として、ソーシャルメディアをはじめ、ネット空間で発信を行っている人たちは少なからず自身の投稿への反応があるのかどうか、自身のアカウントに対するフォロワー数などを気にする場面が日に数回は訪れているはずで、それがなぜかと言えばスクリーンを見ているからに他ならない。

そもそも気にならないのであればスマホやPCを開くこともないだろうし、そこからアプリを立ち上げることもないはずで、少なからず「どんな情報があるのか」「この情報を投稿したらどんな反応になるのか」「これ、自分以外にも興味ある人がいるだろう」と"誰かに共有すること"を自然な行為にまで落とし込んでしまっているといえる。

それってテクノロジーに最適化されてないですか

これを"自身で望んで取り組んでいる"ことなのか、それとも"誰かに最適化されている"のかを考える必要性については以前書いた。結局、各媒体ごとに自身が最適化されていることを自覚しないと主従関係が逆転してしまう気もしているので注意したい。

各ソーシャルメディアで個人でのブランディングだなんだと言われている中で、「SNSアカウントを育てる」という物言いに触れることが少なくない。

意味合いとしては理解できる。

ソーシャルメディアとは口コミサービスだ。匿名か実名かは関係なく、インターネット空間上で投稿されたものは残り続ける。この空間に投げ込んだ言葉が、少しでも多くの"数"に触れることで口コミ投稿を目にする人の母数が増えることとニアリーイコールだといえる。

閲覧された数が多いからと言って、閲覧している人数が必ずしも増えるわけではないため、ただ増えれてばいいのかといえばそうではないし、増える中での"質"の問題もある。冷やかしで閲覧されるのと、実際に購買行動など具体的な行為にまで影響を与えるのかが重要なのであって、闇雲に数だけが増えればいいと言うわけでもない。

数が増えればいいわけではない

しかし、数が大きいことは影響を与える大きな要因だと認識している人が多いからこそ、"数"を稼ぐことができる投稿やアカウントを目指すのであって、その数を取れるアカウントになろうとすることを「育てる」と表現しているのだ。

最近はそんなことばかりしているアカウントが増えたからなのか、どうも面白味がかけてきているように思えて仕方ない。

まぁ、ぼくみたいな弱小アカウントを保有する存在が何を物申したところで何の影響力もないのだが、少なくとも「いいこと言い合い合戦」や「注目を浴びる合戦」みたいな風潮がどこを覗いても行われている現状に余白を感じることが少なくなった。

ぼく自身が年齢を重ねてしまい、インターネット老人会みたいな立ち位置になりつつあるのかもしれないが、少なくとも「最適化されすぎている」アカウントを見ると「育てるも何も...」ともの悲しい気持ちにすらなってしまう。

それほどまでに「アカウントを育てる」といったことは必要なのだろうか。企業アカウントやサービスアカウントなら周知や認知を図る目的で「広告媒体」の一つとして発信を繰り返すことは理解できるものの、それだって「広告」や「宣伝」の色が透けて見えてしまったり、生活者を人間ではなく紙幣として考えてしまっている態度はすぐにバレる。

そうなると「育てるも何もない」のだ。

ぼくは運良く家族を持つことができ、子どもと生活をしているが「子どもを育てる」と思ったことは一度もない。正確に言うと、「育てる」という物言いに違和感を抱いてしまうから使えない。奢り昂った偉そうな態度に聞こえてしまうからで、別に他人にこれを強制しようとは思わない。

しかし、「アカウントを育てる」にも似たような感情を抱いていることは確か。その先には打算的な金勘定が透けて見えてしまうからだ。「子どもを育てる」とは別の違和感を抱かざるを得ない。

そんなことを妻さんと朝のコーヒーを飲んでいると、彼女はぼくに向けて目を細めたかと思うと、こう告げた。

あなたを育ててるみたいな気持ちになってるけどね(ドヤっ。ただ、あなたの母親ではないんですけど!!

我が家には子どもが四名いる、とのことだ。

いつもお世話になっております。

ではでは。

えんどう

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!