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“お祭り”のにぎわいに触れなくなって久しいので観桜会(上越高田)に行き桜を見てきた

どうも、えんどうです。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

区切りの月だった3月を終え、始動の4月に入ると桜の開花宣言がそこかしこで聴かれるようになる。あらゆるソーシャルメディア上でも桜の開花した様子や花見を楽しむ様子が投稿され、みなが花粉と闘いながらも「今年も観桜できたこと」に喜ぶ季節となる。

2020年以降「密を避ける」ため、外出は愚か人との接触を避ける傾向が強くなった。2020年、2021年と年を重ねるごとにぼくが子どもの時期に体験した”お祭り”をはじめとした、”にぎわい”の機会は自粛や延期といった形で損なわれ、現代を生きる子どもたちは経験できなくなってしまった。

今回、新潟県は上越市高田にある「高田城址公園」での観桜会で、子どもたちが”にぎわい”を感じる機会となったことから、機会の貴重さを実感した点について考えてみるが、今回は文章をグッと短くすることにする。

▷ 出店を覗く興奮を知らない子どもたち

我が家で共に暮らす子どもたちは、小学校の中学年に入った長男くんと入学した手の次男くん、それに保育園の年少クラスにあがった三男くんの3名体制である。

長男くんはギリギリ記憶に「お祭り」といったにぎわいを残しているが、次男くんや三男くんは到底そうではない。残念なことであると思いながらも、彼らは「お祭り」で味わえる独特な高揚感を未経験なのだ。

別にそれが「もったいない」とは思わない。他の機会で代替できるものであるとも考えているから、そこまで悲壮感を持っていないのだが、少なくとも我が家における会話の項目が一つ増えることになるのは喜ばしいことではある。

特に長男くんはこの2年、あらゆる動画コンテンツや本などから入手してきた情報から大きな興味を持った「りんご飴を味わうこと」を切望し続けてきたものの、それが実現する機会は訪れなかったのである。

しかし、今回、それが実現した。

あの食べづらく、りんごを味わっているのかコーティングされた飴を味わっているのかが定かにならない加工品であるりんご飴をうれしそうに頬張る彼の表情は、非常に悦の境地に達しているかのようであった。

他にも謎の肉を提供するような出店やパフェやクレープなどの祭りでは定番といえる食品を覗く彼らの目は、なんだかキラキラしていただけでなく、この機会に出会えたことに興奮しているようにも見えた。

▷ “機会”を自ら得られることとそうでないこと

何かしらのイベントに参加することがすべてではない。それに参加すること自体が褒め称えられるべきものだとは思わないものの、それらを否定する立場になり意見をするとしても「参加したことがある」のは重要だ。たとえば、小学校に通い始めれば学校行事などは非常にたくさんの機会がもたらされるだろうが、それらに参加したことがあれば「参加しない理由」が具体的になる。

ただ、その機会への参加自体は自らが望んで行動することによってもたらされるものであるものとそうではないものとがある点は踏まえなければならない。

今回、彼らが参加した観桜会にしてもそうだが、いくら当人が切望したところで世間に向けて開かれたものでなければ参加できない。仮に皇族のみが参加できることが許されたものであった場合、そこに我々一般大衆は参加することなどできないのである。

いわゆる大人になってから「機会に飛び込むのかそうでないのか」は能動的な生き方をしているのかどうかといった社会的評価を一変させる。別に能動的に生きることが良いことなどと述べるつもりはないが、少なくとも「自身の価値基準を理解しているのかどうか」といった点で見ると能動的に生きられる人は「自身が何を得たり与えられたら喜ぶのか」を把握している人だろう。

他人から与えられるものを待つのではなく、切望するのなら自身が能動的に働きかけることで取得するように働きかけること自体が、幸福度を引き上げることにつながることを理解しているのだ。

その観点から見ても「参加したことがある」「経験したことがある」というのは自身の行動を促す大切な素養であることに違いはない。

▷ そんなわけで桜や喜ぶ彼ら

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