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新しい"他人"が増えて1年経ちました

 昨年の今日、4人家族だった我が家に新しい他人が増えた、と家族増加の報告をする内容を書いてました。

 ぼくは「家族とはいえ、他人は他人である」と考えていて、それは「他人だから」と冷たくするような態度をとるのではなく、むしろ逆。

 目の前にいるこの人は、自分ではない人間なんだから見解の相違や認識の齟齬など、家族以外の人とだって少なからず生じる事柄を当然のように受け入れて生活していこうとする態度です。

 長男、次男と新しい仲間が増えるとともに、その考えは強くなっていて、3人目が加わってくれたことで、やっぱりそうだな、と。

 何がそうなのかといえば、生まれ出てきてくれた子は、ぼくの遺伝子を受け取り、容姿なり、学習能力なり、運動能力を一定程度引き継いだ状態で生まれてきてくれているものの、ぼくじゃない。

 生まれた瞬間は、言葉も話せないし、泣くことしかできないし、母乳しか飲めないし、目も見えてなくて、不安になることしかない状態で生まれ出てきてる。そもそも、生きることに精一杯すぎる状態なので「じぶん」もないし、「だれ」もない。

 ただただ、本能的に怖かったり、不安だったり、お腹が空いたりしたことを泣くことでしか発信ができない存在。

 戸籍上の家族だからといって、彼はぼくではないし、ぼくは彼でないのは明白なわけです。そして、彼がこれから成長をしていく過程の中で、ぼくとは全く異なる人生を歩み、時には転びながらも身体的にも精神的にも年齢相応、時代相応の様相を呈していくのだと思います。

 三男が生まれてきてくれて、我が家は5人家族として生活をしているのですが、この1年で気づいた点があり、それを書き記してみようと、これを書いています。

 まず、恐怖感を味わう機会が増えました。

 新生児、乳児と確実に時を経るごとに成長をしている彼ですが、その過程においては命の危険が常につきまとっており、寝ている時に突然死をしてしまうケースだってあるのだとニュースソースを見ることも少なくありません。

 口に物を加えることが増えてくれば、口に入りそうなものを避けようとは思いながらも、長男や次男が遊んでいる玩具の中から小さな破片や欠片が出てきたりもしますから、それらを飲み込んでしまう危険性も考えなければなりません。

 玩具だけでなく、食事中にだって起こり得ますので、離乳食が始まり、普通の食事に変遷していく中で、まだ咀嚼がうまくできない彼のために、細切れにしたり、食べたいと口を開けたとしても、タイミングを見測りながら差し出していかなければなりません。

 お風呂に入れるのだってそうです。根本的に彼から目を離すことはありませんが、何かの拍子に足を滑らせたり、掴まっている手を滑らせることでどこかに頭や口をぶつけたり、溺れてしまう危険性も考慮しなければならないわけです。各種石鹸にだって目がいきますし、それらを口にするなんて当然のように行いますから、もし間違って口や目に入ってしまったら......なんて考えることが止みません。

 じゃー、長男や次男に対しての恐怖感がないのかといえば、決してそうではなく、歩けるし走れるようになっているからこそ、移動の範囲が広がっていきますから、交通事故に遭うのかはわかりませんし、どこかで転び、血を流す怪我をするかもしれません。もしかしたら、勇敢な気持ちを抱いて挑戦をした結果、失敗をしてしまい、大事故に見舞われてしまうかもしれない。

 お風呂に入っている時にだって、三男にばかり気を取られていると、彼らが静かに溺れてしまう瞬間を見逃してしまうかもしれません。実際に次男はぼくが頭を洗い、流した際の一瞬で浴槽からいなくなった経験があり、気づいたからすぐに持ち上げて救出できたものの、「静かに溺れる」恐怖を味わいました。

 溺れる、といえば、トイレで溺れる可能性もあるわけです。特に我が家の次男の場合、自らの排泄物をマジマジと見たり、見はしないけど、ボケっとしていて便座内に落下しそうになったりした経験もあります。そこで便座に頭がはまってしまった場合、トイレで溺れる可能性もあるんだな、と気づいたところから、トイレにすら恐怖感を抱いてしまうようにもなったのです。

 こんな風に書いていると、ぼくはものすごく保護的で、むしろ過保護になっているのではないかと思われるかもしれませんが、基本的に命の危険性がなければ、どんな失敗でも、怪我でもしてもいいとは思っていますので、割と目の前で溺れても笑いながら拾い上げたりしてます。

 ただ、ここには書ききれてない「恐怖体験」はしているので、できる限り過保護にならないような対策を講じながら、彼らとの生活を送っていますので、何でもかんでも怖いし、彼らのための危険のあるものは排除しようなどとも思っていません。

 ......と、書いておいて、なんなのですが、子どもとの生活を送っていて、上につらつらと書いてきた恐怖感を含めて、それを凌駕する"楽しさ"が詰まっています。

 共に生活をしてくれる子どもが3名に増えたので、笑う機会も増えましたし、笑顔を見たいと思える対象が増えました。何をしたら喜んでくれるのか、どうやったら楽しそうな表情をしてくれるのかを考える機会が増えました。

 共に食事をしたいと思える人数が増えましたし、共に寝たいと思える人数も増えました。どこに遊びに行こうかと考える時間は、本当に幸せな時間ですし、それを実行し、彼らが楽しそうな表情や言動をしてくれること、また、ある程度の時間が経った際に「楽しかったよね!」と言ってくれた時の感動は、言葉では表しがたいほどの喜びで満ちあふれます。

 より満ち足りた時間が増えました。

 最高です。


 今日もお読みいただき、ありがとうございます。子どもが増えるのは、その数だけ倍になる、なんてものでは足りないぐらいの幸福感がありますね。


ぼく:遠藤 涼介/Endo-san (@ryosuke_endo

#スポみら (元 #スポーツの未来に僕たちができること )オーガナイザー。 第一弾、新潟経営大学イベントの資金調達を目的に行ったクラウドファンディングは3サイトで募集し、すべて目標達成(総合達成率140%)#新潟 を #前向きな空気の溢れるエリア にすべく活動中。 

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