見出し画像

固有名と属性 5(平野啓一郎試論)

【警告】
小説作品における物語の重要な部分に触れています。未読の方は十分に御注意下さい。

このテキストは『平野啓一郎論』の第四章です。
最初から読みたいという方はクリエイターページのマガジンをご覧下さい。

アナグラム

固有名とは、親が、言葉のカオスに引いた輪郭線であり、具体的には顔である。そして、遺伝子とは、身体に埋め込まれた異物であった。その異物は他者(親)でもあり、紛れもなく自分自身でもある。
すると、固有名を変えるとは、もう一度言葉のカオスに輪郭線を引き直すことである。当然、固有名が囲い込む属性も変更される。
『顔のない裸体たち』の〈吉田希美子〉はネット上では〈ミッキー〉というハンドル・ネームで活動していた。「キミコ」を「ミッキー」としたのは、高校時代に凝っていたアナグラムの名残りである。
彼女にアナグラムを教えたのは高校時代の物理の教師だった。カッコいいと言う生徒もいたが、卒業すると、どうして彼をカッコいいと思っていたのか、皆が首を傾げた。
物理の教師はアナグラムに凝っていた。物理学者の名を、アナグラムにして披露していた。また、彼は、ある時、一学年全員の名簿をアナグラムにして発表したことがあり、流石に変人扱いされた。〈吉田希美子〉は「良き御輿だ」となっていた。
彼女は、アナグラムにはまり、自分で考えたアナグラムを手渡し喜ばれた。図書館で勉強をしていた時、「元気か?」と肩を揉まれた。
〈吉田希美子〉がアナグラムによって〈ミッキー〉に変態したのは、DNAの並び替えに似た、一種の突然変異である。物理の教師は、物質を変態させる錬金術師を思わせる。
変身に憧れ続けた「最後の変身」の「俺」はネットではEARLというハンドル・ネームをつけた。REALのアナグラムのつもりだった。英語では伯爵を意味する。
アナグラムには意味がある。
平野自身、『三島由紀夫論』で三島由紀夫が登場人物の名に意味を持たせることに注目している。たとえば『豊饒の海』の本田繁邦は『大鏡』の語り手、大宅世継(おおやけのよつぎ)と夏山繁樹(やつやましげき)を思わせる。
平野が作品に忍び込ませた固有名の突然変異をいくつかピックアップしてみよう。
『ドーン』の明日人(アストー)は、アストロノートから採ったのであり、それは生まれながらの宇宙飛行士を意味するのだろうと皆は思っているが、当然違う。“明日の人”という意味だと彼は人に説明する。
『葬送』で、暇を持て余したサロンの参加者たちの間では、言葉当て遊びが流行る。
死期が迫るが、故郷から姉が駆けつけ、喜びに溢れるショパンは、時間の許す限り、姉と昔話に耽る。
シャファルニアに赴いた高等学校(リツエウム)時代のショパンは、ピションと名乗り、《ワルシャワ通信》のパロディで《シャファルニア通信》を作り、家族に日々の出来事を知らせた。
ショパンの元愛人であるサンド夫人は、ショパンを絶対に栓の抜けないワインの瓶 chopine みたいだと辛辣に評していた。きっと、本当の味は皆が想像するような味ではないのだよ、と。
『かたちだけの愛』のプロダクト・デザイナー相良郁哉(あいらいくや)は、いつもサガラやアイダなどと間違えられる。
また、彼の出世作は《ミューミmumi》という、一言で言えば、スピーカーの音を解像感高く聞くための脱着式の大きな耳である。《ミューミ》は、音楽 music と耳 mimi をくっつけた造語である。
そして、洋子の義足の面倒を見る装具士の名前は、医療関係者であるにも関わらず、淡谷大三治(アワヤ、ダイサンジ!)である。
『決壊』で犯人らしき者が掲示板に書き込んだ犯行声明らしきコメントのハンドル・ネームは〈穴開き/Anarchy〉であった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?